氷天楼にご案内     3







 形ばかりの面接を受けるのは3回目だが、国家の主と至近距離で相対するのは初めてだ。
これが孫仲謀か、なるほど確かに威厳がある。
誰もやりたがらない超重要閑職程度に、まさか孫権自らが面接官として現れるとは予想外だった。
参った、陸遜の元から逃げ出したい一心で応募したので、職務経歴書をやや盛りすぎてしまったかもしれない。
書庫焼失事件は結果としてお咎めなしだったが、本来ならば管理者としての責を問われてもおかしくはなかった。
ただの火事ではなかったからですよと言ったきり陸遜は深くを語ろうとはしなかったし、こちらも被らずに済んだ罪を受け入れるつもりはさらさらなかったので真相は知らないままだ。
あまり立ち入ったことは訊かない方がいいのだとも思う。




「ふむ・・・、今は陸遜の元で書記官をしているのか。今回の件について彼の許可は得ているのか?」
「いいえ」
「確か・・・お前、陸遜と深い仲にあるのでは」
「ありません」
「いやだがしかし、陸遜が日頃より口にしている『私の超絶優秀な部下にして愛しい恋人の殿』とはまさしくお前のことでは」
「あの方は夢でも見ておられるのでしょう、本当に嫌なお人」




 そう言い切り、ぷいと横を向いたに孫権は狼狽えた。
貴重な応募者だ、機嫌を損ねたくはない。
しかし、これではあまりに陸遜がかわいそうだ。
元は書庫番だったという彼女を、策を弄した末に部下として迎えた陸遜の話は有名だ。
ひょっとして火をつけたのは陸遜なのではと、いかにもありえそうな陰謀説も一頃流れたほどだ。
それほどまでに可愛がっている(つもり)のを、失おうとしている。
しかも彼女自らの力で逃げ出そうとされている。
陸遜が哀れなような自業自得のような、いずれにせよ彼女の転属を決めるのはこの孫仲謀だ。
孫権はちらりと、横で控えている練師を見やった。
穏やかな笑みを浮かべている。
知り合いかと尋ねると、練師はゆっくりと頷いた。




「昔・・・孫策様にお仕えするにあたり、共に机を並べたことがあります」
「なんだ、そうだったのか。ん? しかし書庫番になる前は何を?」
「確か・・・、朱然殿のお屋敷にいたのではなかったかしら」
「ははは、火計好きと縁があるのだな」
「義封・・・朱然殿にも大変良くしていただいたのですが、分不相応のお役目でしたのでお暇をいただきました。・・・恐れながら、今回の任務も適材が見つからないのでは?」
「とても特殊な仕事よ、誰にでもできるものではないわ。危険だってあるかもしれない。陸遜殿もきっと許さないはず」
「私の人生です。陸遜殿が上司とはいえ、とやかく言われる道理はありません」





 今更改めて言われずとも、その求人を見た時から起こりうる危険は覚悟していた。
本物の閑職だったからと考えなしに飛びついたわけではない。
考え方も生き方も、戦い方も何ひとつ孫呉の人々と交じり合わない曹魏の降将付きの女官として働くともう決めたのだ。
いつか国に帰る日まで、短い期間でもそれなりに暮らしてもらえるよう手を尽くすと覚悟をしたのだ。
陸遜は絶対に許さないだろう。
親友にも思い直してくれと縋られた。
戦地に行くわけではないのに怖がりすぎだとからかったら、笑いごとではないと一喝された。
親に叱られるよりも凄まじい迫力だった、立っているところが一瞬にして戦場になったかと震えたくらいだ。





、武芸の腕は」
「いいえ、まったく」
「陸遜の元にいると風当たりが強いのか」
「私が知っているあの人と、皆が見ている陸遜殿はまるで別人のよう。小娘でもないので今はもう煩わしくはありません、ご心配をおかけしました」
「于禁は曹操に長く仕えた歴戦の将だ。関羽との樊城での戦で投降しこのような境遇となったが、軍規に厳しく無為に乱暴や狼藉を働くような者ではない。
 万一不都合なことがあれば直ちに私や練師に申せ、お前は孫呉の代表として任に当たるのだ」
「かしこまりました。この、力の限りお仕えさせていただきます。それで、早速孫権様にお願いしたいことがあるのですが」
「うむ、何なりと申してみよ」
「ありがとうございます。では、陸遜殿への説明をよろしくお願いいたします」





 恐ろしく用意周到な女だ、最大の厄介事とも呼べる案件をここぞという時に放り投げてきた。
しかしなんでもと言ってしまった以上、断ることなどできようはずがない。
大丈夫だ、陸遜は道理を弁える理性的な軍師だ。
個人の感情を優先してしまう男ではないはずだ。
への執着を聞くに、必ずとも彼の理知的な思考は鉄壁のものではないようだが。
気が重い。
主命に背く陸遜ではないとわかっていても、陸遜いわく『愛しい恋人』であると引き離されることについては面白くないに決まっている。
さて、いったいどこでどうやって切り出すか酒でも舐めながら策を練るか。
孫権は、練師と女官心得をおさらいしているを見やりため息を吐いた。













































 このところ、の仕事ぶりが格段に上がった。
当たり前のことだが、真面目に職務に打ち込んでいる。
沈黙がほんの少し不気味でつい睦言などを囁いてみるが、反応は鈍い。
色ボケと言われない。
ボケてはいないのでそれはそれで正しいのだが、まったくもって面白くない。
やはり原因はあれだろうか、あれしかないだろう。
の机回りが妙に片付いているのも、彼女が部屋の主にして上司に何の断りもなく自宅から持ち込んでいた内職道具が姿を消したのも、すべてはあれのせいだ。
降将など受け入れなければ良かったのだ。
どれだけ礼を尽くしても膝を折ることのない曹魏の重鎮だった将だ。
たとえ樊城で関羽に屈しようと、また同じことを孫呉に対してもするとは限らないのだ。
だから一応は同盟相手となっている曹魏に、保護した彼を送還するという面倒な任務が発生しも巻き込まれてしまったのだ。
そもそもだ。
なぜ今日の今まで何も言ってこないのだ。
徐盛の口癖を借りるわけではないが、筋は通しておくべきだと思う。





殿」
「はい。ああ、先程の決裁でしたらこちらに」
「ありがとうございます。・・・何をしているのです?」
「書簡の整頓です。以前からずっと気にしていたのですがほら、こうして事案別に分けた方がわかりやすくはありません?」
「そうですね。さすがは殿です、私はいい部下に巡り合えました」
「それはどうも」
「これからもずっと一緒にいてくれるのですよね、殿」
「いいえ」
「ではなぜ何も言わないのですか。私はあなたの上官です、あなたの意思だけで私から離れることは許されません」
「本当に意地悪な方ですよね、陸遜殿は。孫権様からお話は伺ったのでしょう?」




 話は聞いた。
辞令も渡され、拝領した。
目の前で投げ捨てなかったのは偉いと思う。
ふざけるなと声を荒げなかったのも、大人になったと思う。
やりたいと手さえ挙げればすぐに話が進んでしまうほどに人材難に喘いでいたのか。
だったからとんとん拍子に決まってしまったに違いない。
大体に細やかな気配りを要する類の仕事が務まるとは思えない。
休憩中のおやつも常に自分の分しか用意しないような自己中心的な女だ、打つ手を誤ればそれはもう簡単に彼女の首が飛んでいく。
そんな切迫した環境に行きたがるの気が知れない。
ここはそれほどまでに彼女にとって辛い環境だったのかと勘違いしてしまいそうになる。





「聞くところによると、于禁なる将は軍規に厳しい方とか。終日酒盛り、決闘、乱闘に明け暮れていた旧甘寧隊に比べれば随分と大人しいと思いますが」
「私の執務室も充分穏やかですから、それは理由にはなりません」
「どなたもやりたがらなかった任務に大抜擢された元部下を期待してくれてもいいものを・・・」
「誰が好き好んで敵将の元で働きますか! 誰かに何か言われているのなら私が話します、殿は自分を粗雑にしすぎる!」
「大切にしています! しているからここから出て行くのでしょう! 陸遜殿の元から逃げていくの!」




 勝手に人の生きざまを決めないでほしい。
哀れだと思わないでほしい。
このまま陸遜の元にいれば、本気で後戻りができなくなる。
己を見つめ直そうとしても周囲がそれを許さず、陸遜の思うがままになってしまう。
もちろん陸遜は口と行動こそ色ボケじみているが、思慮深い一面もあるのでこちらを鑑みてはくれるだろう。
不満はありませんか、どうでしたかとすべてが終わった後に確認してくるのだ。
ここに来た時こそがまさにそうだった。
逃げ場を与えられることなく強制的に書記官として赴任させられてから初めて、『困ったことがあれば何なりと言って下さい』と言われたのだ。
遅い、遅すぎる。
なぜそれを初めに言ってくれなかった、どうして選択肢を作ってくれなかった。
選ばせてくれたら迷わず素直に選んでいたのに、なぜ信じてくれないのだ。
そして今もそうだ、既に決まったことですら認めてくれていない。
自分を酷く蔑ろにされている気がして、はそれがとても嫌だった。





「・・・どうあっても、私の元から去るのですか」
「はい。片付けはあらかた終えています。・・・来られるかどうか知りませんが、引継ぎの資料はここに」
「于禁を見送った後はいずこへ?」
「さあ・・・。働き次第ではお声掛けもあるかもしれませんし、正念場ですね」
「朱然殿とは」
「は?」
「・・・いいえ、何も。鍛練に出ます、戸締りは結構です」
「お気を付けて」





 どっさりと火計道具を抱えて外へ出て行った陸遜だが、彼には空が見えていないのだろうか。
は火薬も湿気る降雨の中執務室を後にした陸遜の遠い背中を無言で見送った。







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