縁儚し恋せよ姫君     15







 ああ、やっぱりには紅色の方が似合うよなと一瞬考えてしまった自分は、相当混乱していたのだと思う。
赤く染まる大地の中で倒れるを目にしてから、どうやって帰陣を果たして今日に至っているのかまったく思い出せない。
と再会するまでの日々を何も覚えていない。
昨日何をしたのかもわからないし、きっと、今日のことも明日になれば忘れているのだと思う。
を見なくなってどれだけの時が過ぎたのだろうか。
会わせてくれと懇願しても会わせてくれないほど、の傷は深いのだろうか。
もしやはとうに死んでいて、それを周囲が隠しているのではないだろうか。
嫌だ、が、大切な人をまた目の前で喪うなど考えたくもない。
はどこにいるのだ、まだここにいるのか。
凌統は分厚い壁のように立ちはだかる陸遜に詰め寄った。




「頼む、に会わせてくれ」
「無理です」
「どんな姿になってようと覚悟してる。・・・あれだけ酷かったんだ、そういう覚悟もしとくべきでしょう」
「今の殿には安静にしていただきたいのです」
「俺がいたら心穏やかでいられないってかい」
「ええ」





 さすがは決闘を挑み勝利を収めるまではを失う気のない陸遜だ、恋人に会い焦がれている男に対しても容赦ない。
凌統はおそらくは陸家の広大な屋敷のどこかに匿われているであろうに届くよう、大声での名を叫んだ。
宮殿の奥深くで大層上品に育てられてきただから、きっとあまりの喧しさに眉を潜めどこからか顔を出すに違いない。
ちらとでも姿を見たら、昼夜を問わず監視の目を掻い潜っての部屋に忍び込んでやる。
これでも許昌では密偵の真似事をして、そのおかげでと出会えたのだ。
実績は充分にある。
凌統はではなく目の前の立つ陸遜の喧しいですの一喝に、むうと押し黙った。




殿はここにはいませんよ」
「じゃあどこにいるっていうのかい。軍医殿のとこにはもう全部通ったし、やっぱここのどこかにいるとしか考えられないね」
「軍医に任せていられますか。・・・内緒にして下さいね、我が家には我が家の情報というものがあり、殿はその伝手を頼って療養しているのです」
「へえ・・・。そんな内緒にしたい伝手頼っちゃうくらいには重傷で、でもって軍師殿に大切にされてるんだ。妬けるねえ、軍師さんが朱然だったら今頃張り倒してたよ」
「かつて劉備軍に従軍医として参陣していたそうですが、戦場では肝が潰れて何もできなかったことを恥じ、こちらへ戻って来られていたそうです。腕は確かです、安心して下さい」
「それで、は今どこに?」
「わかれば困りません。なまじいい医者に見せたばかりに傷の治りも良かったようで、目を離した隙に逃げました」
「・・・ああ、そう」





 主である孫権よりも影響力と地力が強固な陸家の当主が太鼓判を押すくらいなのだから、よほどその者は優れた医師なのだろう。
どこの馬の骨ともわからない奴にを任せるのは不安で仕方がないが、彼にを託すしかないのだろう。
託したのだから、にはぜひとももう少し大人しく静かに療養してほしい。
会いに行くのではなく、探しに行くとは思いもしなかった。
凌統は陸家を辞すと、ぶつぶつと呟きながらが出向きそうな場所を目指し歩き始めた。








































 このまま、ふらりと消えてしまいたい。
誰かに気付かれる前にどこかにいなくなってしまいたい。
はようやく癒え歩けるようになった足で、ゆっくりと市場を歩いていた。
まだ走ることはできないし歩き方もややぎこちないが、ずっと屋敷の中にいると気が滅入るから無理をして抜け出してきた。
陸遜がどこからか手配した医者の腕は確かで、目が覚めた時には痛みもかなり引いていた。
傷跡のすべてを消すことはできなかったし今も頬には布が宛がわれているが、馬超からあれだけの猛攻を受けこれだけの怪我で済んだのだから僥倖というものだ。
今もこうして生きているのは、劉備いわくここにいる必要がまだあるからなのだろう。
まだ成すべきことがあるから生きているはずだ。
は一頃売り子として通った甘味処で肉まんを頬張り、空を見上げた。
突かれた足は直に治るが、腕は完治にはもう少し時間がかかるらしい。
あの馬超様と戦って生きているだけで良しと思えと董奉と名乗る医者はしかめ面で言ったが、もっと強ければ怪我も酷くはなかったかと思うと悔しくなる。
早くもっと戦えるようにならなければならないのに、今の体では何もできない。
小間使いもできない今、存在価値はない。
いったい何をなさったのですかとおっかなびっくり尋ねてくる店主に、は口元をわずかに緩め口を開いた。





「蜀将と、少し」
「それはよくご無事・・・い、いや、このような所におられて良いのですか・・・!?」
「構いますまい。今のわたくしは何もできぬ身。またこちらでお世話になりたかったのですが、それすらできません」





 本当に何もできなくて笑えてしまう。
あれだけ笑みに悩んでいたのに、今ならいくらでも冷ややかな笑みを浮かべることができる気がする。
何かをしなければこの国にいてはいけないと思ってしまうのは、自分自身を余所者だと思っているからかもしれない。
国にいづらい。
は目の前に不意に現れた影にのろのろと顔を上げると、ことりと首を傾げた。






「随分と女ぶりが上がったじゃねぇの、ああ?」
「どこかでお会いしたことがございましたでしょうか」
「てめぇは忘れたかもしれねぇけどよ、俺はしっかり覚えてるぜ。あの時はよくもやってくれたな、おかげで俺らは役人にしょっ引かれた」
「・・・ああ、思い出しました」
「面も変わったようだが構やしねぇ、手負いだろうと女は女だ」





 にやにやと下卑た笑みを浮かべた男たちに見下ろされるが、こちらが抵抗できることは何もない。
一度袖にされた女をつけ狙うとは暇を持て余した男たちだ、馬鹿馬鹿しい。
は不躾な視線を浴びる中、残りの肉まんを悠々と口に運ぶとそれでと訊き返した。





「手負いの女に復讐しに参られたのでしょうか。今日のわたくしは手負いゆえ加減できませんが、よろしゅうございますか?」
「今更強がりか? 可愛げねぇな」
「やめときな。こんな可愛げない子相手にしても楽しかないっての」





 見ず知らずの輩に可愛くないと言われてもなんとも思わないはずなのに、さすがに連呼されるとそれほどなのかと気にはなるし少し傷つく。
は可愛げもなければ楽しくもならない自身をひょいと抱きかかえた不埒者を見据え、後頭部を鈍器で殴られたような眩暈を覚えた。
今すぐ離してほしくて身悶えしても、はいはいと軽くあしらわれるだけだ。
は自身を抱いたまま、突然乱入してきた毛色の違う男に色めき立つごろつきを蹴散らす様子を見て心の底から消え去りたくなった。
雑魚を追い払い市場のど真ん中を歩き始めた男を、はおやめ下さいと詰った。





「離して下さい、おやめ下さいませ」
「お嬢さん、そんな怪我こさえたまんまどこから抜け出してきたんだい? ったく、怪我人の時くらい大人しく寝てなよ」
「怪我などとうに癒えております」
「そうかい? じゃあこれは?」





 ぎゅうと掴まれた腕に思わず悲鳴を上げると、すぐに慌てた声でごめん悪かったと返ってくる。
は触れられればまだまだ痛む腕をさすると、恨めしげな目で誘拐犯の焦った顔を見上げた。




「ごめん、でも無理してほしくないんだ。・・・軍師さんとこで医者に診てもらってんだろ? 送り届けるだけだから、具合悪い時だけでいいから無茶しないでくれ」
「・・・歩けますので下ろして下さい・・・。恥ずかしゅうございます・・・」
「恥ずかしいことやってんだから当たり前だっての。これ以上恥ずかしいことされたくなかったら大人しくしとくこと。あとさっきの連中何? 好き勝手のことあんな目で見て腹立つ」





 市場の人々に顔を見られたら、二度とここを歩けない。
いや待てしかし、これはもしかしなくても凌統に甘える好機なのではないだろうか。
今の凌統はこちらが恥らっていると思い―――現にそうなのだが、完全に油断している。
怪我をすると心も少しだけ気弱になってしまうのだ。
少しでも温もりを感じたくなるのだ。
は凌統の顔をちらりと盗み見て、小さく頷いた。
これも戦いだ。
愛する人に身も心も委ねることができるのか、己との戦いだ。
躊躇いがちに伸ばした腕で凌統の服をぎゅうと握り、真っ赤になっているであろう顔を胸に押しつける。





「・・・・・・・・・」




 呆れたのか怒ったのか、凌統が深く大きく息を吐き歩みを早くする。
やはり可愛げのない女が甘えても気味が悪いだけだったのだろうか。
は情けなさでいっぱいになりながら、凌統の胸に伏せた顔を上げることができなくなった。







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