縁儚し恋せよ姫君     終







 凌統は何も感じないのだろうか。
わざわざ敵国から連れ去って来るほどに愛していた女に体を寄せられているというのに、本当にどうとも思わないのだろうか。
ちらりと盗み見た凌統の顔には何の感情も浮かんでおらず、先程よりも足早にどこかへ向かっている。
重いのであれば下ろしてくれて構わないのに、凌統は優しい。
いっそ下ろしてほしい。
変に優しくされても却って傷つく。
できれば足と腕以外に、心に精神的な痛みは覚えたなくない。
は見慣れた門を開け放ちずんずんと居候先の寝所へと向かう凌統と、彼を見つけ呼び止める陸遜の声を聞き気を失いたくなった。
陸遜の待ちなさいと叫ぶ声にも耳を貸さず、凌統は歩みを更に速め寝所へ向かい無言で室内に入る。
何が起こるのかまったく予想がつかず、怖くてたまらない。
いったい何があるのだろうか。
不安で心をざわつかせていたは、あっさりと寝台に寝かされ布団をかけられ拍子抜けした。




「・・・あの、公せ「怪我人は怪我人らしく寝てること」
「・・・あの、公績殿・・・。わたくしは、・・・公績殿は何も感じられませんでしたか?」
「何かって何だっての」
「ですから、先程わたくしが公績殿に・・・」
「・・・、あのさ」




 ふうとため息を吐いた凌統が寝台の端に腰を下ろす。
凌統と相対したくて身を起こしかけるが、凌統の片手で再び寝台に倒れる。
そのままでいてくれと頼む凌統に従い大人しくなると、凌統はようやく笑みを零した。




「そうそう、そうやって怪我してる時くらい大人しくしてないと治るもんも治んないよ」
「・・・もう歩けるのです」
「でも歩き方がまだおかしい。ちゃんと治さないと変になるっての。・・・ごめん、また守ってやれなかった」
「わたくしの力が及ばなかっただけのこと。公績殿が気に病まれることはございません」
「だからさ、そういう他人行儀なとこが・・・。・・・まあいいや、が余所余所しいのは俺がまだほんとの意味でに信頼されてないからだし」
「そのようなことはございません! わたくしは公績殿を信じております。ゆえにわたくしは公績殿たちに蜀軍本隊を任せることができたのです」
「それはさ、将としての俺だろ。俺は男として、を愛する1人の男として心を預けてほしいんだよ。
 そりゃ俺は姫様の旦那さんみたいに大それたこと言えないし好きな女1人守れずこんな体にしちまうけどさ、それでも俺はを愛してるんだ。
 どんなににつれなくされようが俺のこと見てすらくれなかろうが、やっぱり俺にはが必要なんだよ」
「公績殿、もう良いのです」
「良いことなんて何もない。と許昌で会って戦って別れてから、俺がどれだけのこと想ってたか話してなかったよな。
 すごく苦しかった。好きになった子があろうことかあの曹操の娘さんだったから、おいそれとも会えないし。なんでそんな大層な子を好きになっちまったんだろうって思ったけど、諦められなかった。
 それはだったからだよ。
 大切な人が生きてて、遠くにいて二度と会えないって思ってた人が目の届くとこにいるっていう他の連中からしたら何てことない些細なことが、俺にとってはすごく嬉しいことなんだ」





 それだけでいいからさ、だから無茶とかしなくていいんだよ。
帰陣してから無茶らしい無茶をした覚えは微塵もないのだが、凌統の熱の籠った念の押し方には思わず頷いてしまう。
ここにいることがなによりの証。
劉備にそう言われた時は何を指しているのか理解できなかったが、ようやくわかった気がする。
難しく考えることは何もなかった。
愛する人に必要だ大切だと言ってもらえ、それ以上もそれ以下も求めるものは何もないのだ。
この方はわがまましか言わないわたくしのことを、わがままなところも含めて愛して下さっている。
嬉しかった。
愛されることがこれほど心地良いものだとは思わなかった。
こんなに愛してくれる人にどうして今まで甘えることができなかったのだろうか。
凌統はすべてを受け止めてくれる。
受け止めてほしい、甘えたい。
は凌統をかつてないほど熱い瞳で見つめた。




「公績殿」
「うん? あー、それから、ほんと無理しなくていいから。別に俺とそんなに合わせようとしてくれなくてもいいからさ」
「え?」
「俺だって男だからね、好きな子にいきなり抱きつかれたりそんな目で見つめられると勘違いするっての。ごめんな、そんなつもりないんだろうに」
「・・・・・・」
? ・・・もしかして、ほんとに誘ってたりした・・・?」
「・・・口にしなければ、わかっていただけないのですか・・・?」





 女の扱いに慣れているようだからわかってくれるとばかり思っていたのだが、実は凌統はかなり鈍いのだろうか。
恥ずかしさよりも甘えたさが勝っているからこうして見つめていたのに、凌統には伝わっていないのか。
勘違い、無理をさせていると思わせてしまうくらいに過去の自分は彼に対して冷たく接してきたのだろうか。
は、ようやく気付いてくれたのか驚きの表情を浮かべている凌統の顔を自由が利く方の手でそっと触れようと手を伸ばした。
伸ばした腕を凌統につかまれ、布をかけられ仰向けになったままの自身に被さるように凌統が体を倒す。
と呼んでくれる声にはようやく艶めかしさが宿り、は間近で見つめられることで紅潮する顔を逸らすことなく公績殿と呼び返した。





「わたくしに、これ以上無理をさせないで下さいませ・・・」
「無理するも可愛いっての」
「まことでございますか? ろくに笑いもできぬ女なのに」
「笑ってる。が気付いてないだけで、は俺たちの前ではちゃーんと笑ってくれる。それに、のおかげで今の俺はこんなに笑顔だっての」
「嬉しい・・・」




 嬉しさで、じくじくと感じていた痛みが消えていくような気がする。
凌統に見つめられているだけなのに体中が熱くなる。
凌統の顔が近付き、はうっとりと目を閉じた。
凌統がいることが、今自分がここで生きている証だ。
生きているから愛してもらえる。
生きているから愛することができる。
こつん。
恥ずかしくも待っていた口づけではなく、こつんと鳴った額にあれと思う。
こつん。こつん、・・・こつん?
恐る恐る目を開けると、凌統が額を手で覆い天井を仰いでいる。
何が起こったのだ。
目を閉じているほんの数秒の間にいったい何が起こってしまったというのだ。
は寝台から降り手早く乱れた布団を治した凌統を訝しげな表情で見上げた。






「やっぱおかしいと思ったんだよ、がいきなりこんなことしてくるなんてありえないっての」
「・・・おかしい・・・・・・ありえない・・・とは・・・?」
「具合悪いなら悪いってちゃんと言うこと。ほんとに無茶しかしないんだからさんは。いいか、すぐ先生呼んでくるから大人しくしてるんだよ」





 腹が立つ。
腹立たしさで具合が悪くなりそうだ。
は早口でそう言い残し寝所を後にしようとする凌統の背中に、出しうる限りできうる限り最大の罵詈雑言を投げつけた。





「公績殿の・・・・・・愚か者!」




 公績殿とはしばらくお会いしとうございません、無理をせず公績殿とはお話いたしません。
いつになく感情を露わにしたの怒声を浴びながら、足早に外に出る。
口が悪くなるのはいただけないが、もかなり性格が解れてきたようだ。





「・・・あー、俺何やってんだか・・・」
殿の看病の妨げになりますから退いて下さい、愚か者」





 の大声を聞きつけた陸遜が、医者を連れ現れる。
愚かだ、本当に愚かだ。
が本当に甘えてきてくれているとわかっていたのに、今すぐにでも触れたかったのに、触れてはいけない気がして逃げ出した。
いや確かに本当に彼女の体調は思わしくなかったのだ。
こちらが意気地なしだったわけではなく、これはの身を考えた上での苦渋の決断での撤収だったのだ。
しかしたとえそうだとしても、あれはさすがになかった。
凌統は陸家の広大な庭に無造作に置かれた岩に腰かけ項垂れようとして、突如火を噴いた地面の爆発になすすべもなく巻き込まれた。









  ー完ー







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