かたきどもの遠吠え     11







 濁流が城を飲み込んでいく。
増援部隊が未然に食い止めてくれれば最上だったが、決死の覚悟で樊城攻略に乗り出してきた関羽軍を退けるのは容易ではない。
むしろ返り討ちには遭わなかったろうかと、さらなる被害拡大を案じるくらいだ。
水門が破壊された時のこちらの損害についてはあらかじめ予測を立てていてそれなりに対処はしていたので、最悪の事態は免れることができている。
主将が曹仁だったから、極度に慌てふためくことなく粛然と行動できた。
もちろん損害は大きい。
喪い、あるいは去った将兵も数多くいる。
しかし止まない雨はないように、水門を破り押し寄せた濁流もいつかは引く。
曹仁の力と守城には幾許かの備えがある自身がいれば、関羽軍を撃退し、さらにその先の戦果を見届けることもできよう。
満寵は城壁の上から濁流を見下ろした。
流木や兵器が次々と城に流れ着いている。
これに呑み込まれた兵はどれだけいるのだろう。
退路を断たれ、絶望した兵はどうしただろうか。
漂着物から新たな兵器は作れないものだろうか。
とめどなく流れてくるそれらを眺めていた満寵は、ふと視界に飛び込んできた何かに目を瞬かせた。
迷っている暇はない。
動くなら早急に手を打たなければ、彼女もまた木端微塵になってしまう。
このところは随分と丸くなったと聞いていたが、お転婆なのは相変わらずのようだ。
満寵は腰と城壁に結いつけた縄が互いにきつく縛られていることを確認すると、濁流へと飛び込んだ。
辛うじて丸太に体を預けている小柄な体を抱き取り、城壁に控えていた護衛の兵に向け手を挙げる。
かなり流されてしまったが、ずぶ濡れの体をどうにか引きずり上げる。
やはり彼女だ。
満寵は真っ白な顔の女性の体をがくがくと揺さぶった。






起きなさい」
「・・・・・・」
「駄目だ、完全に落ちている」





 ぐったりとしているだけで、死んではいない。
体は冷え切っているが冷たさは死人のそれではないし、胸に耳を押し当てると確かに心音は聞こえる。
恐ろしいほどの強運の持ち主だ、いったいどんな目に遭わせれば命を落とすのか興味すら湧いてくる。
それを尋ねるためにも、今は彼女を蘇生させなければ。
満寵は躊躇うことなくの口を塞ぐと、息を強く吹き込んだ。
何度か繰り返しているうちに、がげほげほと激しく咳き込み始める。
満寵は息を吹き返したらしいに自らの外套をかけると、改めて声をかけた。





「やあ、人心地はついたかな」
「あ・・・満寵様。あれ・・・私どうして・・・」
「それはこちらが訊きたいな。許昌から増援が出たことは知っていたけれど、随分と突飛な手段で来るものだね。いい勉強をさせてもらったよ」
「私は何を・・・? 確か水門で関平と戦って、それで投げ飛ばされて・・・。・・・そう、水門。満寵様、水門は!?」
「破壊されて樊城はこの様さ。おっと、そんな顔はしなくていい。私はもちろん曹仁殿もご無事だよ」
「そうですか・・・。じゃ、じゃあ李典様と楽進様は。増援隊を率いて先に城に向かったはずです」
「彼らも今は交戦中だ。、君は樊城に流れ込んだあの濁流の中にいたんだよ。無茶な戦いはしないと誰と何度約束した? 普通なら死んでいてもおかしくない」




 そんなことを言われても、説明を受けるまでこちらも我が身に何が起こっていたかわからなかったのだ。
気が付けば樊城で満寵と合流していたなど計画にはなかった。
死ななかった理由も知るわけがないし、無茶な戦いをしたつもりもない。
成り行きでああなったのだ、今更責められても困ってしまう。
はむうと押し黙ると、腰へ手を当てた。
体じゅうが痛くてたまらない。
きっとまた切り傷と痣が増えているのだろう、今度の怪我も跡が残ってしまうかもしれない。
防具もまた修理に出さなければならないだろうし、武器に至っては流されている途中で落としたのかどこにもない。
これでは丸腰だ、戦うどころではない。
何が救援だ、助けられているのはこちらだ。
は満寵に外套を渡すと、ゆっくりと立ち上がった。
多少ふらつくが、直に問題なく動けるようになるだろう。
そうではなくては困るのだ。
今はできることをすべきだ。
のんびりしている時間などどこにもなかった。





「満寵様、剣、ありますか」
「今の君を戦場には行かせられない。これは私個人の感情じゃなくて、軍を預かり城を守る将としての判断、つまり命令だ。聞けない君ではないだろう?」
「・・・・・・」
「曹仁殿のことなら心配はいらない、なぁに、水だってそのうち引くとは計算済みだ。今のがやるべきことは、まずは何よりも自分を労わることだよ」
「・・・・・・はい」
「よーしいい子だ。ところで、水門制圧隊で合流できたのは今のところ君だけだ。他には誰がいたかい? 彼らの合流を待つことも隊員の大事な務めだよ」
「無事なのでしょうか・・・」
以外には死んでも殺されたくないって豪語する御仁がいるんだろう? ・・・待っていておあげ、今度はちゃんと帰ってくるから」





 だからその前にまず、そのでろでろの服を着替えておいで。
そう言われて改めて、立ち上がった自らのいでたちを見下ろす。
話を聞く限り相当の強行軍で樊城に辿り着く、いや、流れ着いたらしいが、なるほど確かにまるでボロだ。
満寵でもこんな格好はしないし、さすがの李典もこれを見れば百年の恋も冷めるに違いない。
だとすれば着替えるより先に彼の元へ向かった方がいい気もする。
・・・余計な心配をさせ、やはり賈クの部下なんてやめろと言い出しかねない。
彼はそういう男だ。





「満寵様」
「うん? ああ、私の服は気にしなくていい。いつもそんなものだ・・・っては知っているか」




 見知った人の帰還を今にも泣きそうな顔で待っているのは、いくつになっても変わらない。
別れた場所で何があったのかは知る由もないが、誰よりもを悲しませたくないと思っている男が意に沿わぬことをするわけがない。
満寵は覚束ない足取りで幕舎へと消えていくの後ろ姿を見送ると、再び死地へと足を向けた。







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