かたきどもの遠吠え     8







 思ったよりも早く動き始めたというのが、正直な感想だ。
成都を落とし巴蜀の地を得た義兄弟に遅れじと領土拡大を図っていた関羽ならば、その日は遠からずくるだろうとは予測してた。
それを見越して軍の再編及び調略を仕掛けていたので、驚きはさほどない。
むしろ懸念しているのは、この状況を知った時の副官候補殿への対応だ。
幸か不幸か、彼女はただいま絶賛お見合い中だ。
誰もが乗り気でない縁談などする必要はないと思うのだが、上官のそのまたもっと上、国の頂点に立つ者が用意した席に座らないわけにはいかない。
は軍人だ。
軍人は戦うことが仕事だ。
長く軍人として生き戦場で刃を交えてきたは、同じ年頃の女性たちとはおそらくはあらゆる点が違っているはずだ。
もちろんそれは他の誰でもない自身がわかっていると思う。
だから彼女はしきりに自分には戦う道しかないと口にしている。
それはまるで、自分自身に言い聞かせているようにだ。





「賈ク様、賈ク様!」
「随分と早いご帰還なことで。その様子だと首尾良く「そんなものはどうでもいいのです!」そんなものとはそりゃあ手厳しい」




 案の定、非番にもかかわらずばたばたと慌ただしく幕舎へ駆け込んできたを見やる。
どうやら話は既に伝わっているらしい。
賈クは呼吸ひとつ乱さず執務机に両手を置いているをまずは落ち着かせるべく、着席を促した。





「まさか宮城からここまで走ってきたのか? その格好でなんて、立派に鍛えてることで」
「国の大事にのんびりとしていられるわけがないでしょう。出陣はいつでしょう、私なら支度は既に」
「あーあーそのことだが、あんた今回は留守を頼む」
「なぜですか! 戦える兵はひとりでも多い方がいいはず。であれば私も」
「殿直々に縁談持ち込まれるような大事なお嬢さんに傷ひとつ負わせてみろ。俺の首が飛ぶ。生憎と俺の首にはもう先約があるんでね」
「だから、縁談なんてものは!」




 やっぱりすぐにでも断るべきだったと呟き唇を噛むのことが、ほんの少しだけ怖くなる。
相手は確かのことを好ましく思っていて、ぜひにと今日の席を用意してもらったと聞いた。
男がそうまでして思っていたのに、あろうことかこの女はその場であっさりと断るつもりだったらしい。
恋敵には違いないが、さすがに男には同情を禁じ得ない。
常識や礼儀は人並みに弁えているはずのに即決を迫らせるとは、よほど怒らせるようなことをしたのだろうか。
顔を合わせて早々手籠めにしようとしたなどであれば許す、100回殺しても足りないが。





「あー・・・。ところであんたの相手はいったいどちら様だったんだ。あんたの上司としても一応挨拶くらいはしておきたいんだが」
「不要です。それに賈ク様もよくご存知の方です」





 取りつく島もない。
なによりも、この話は口にしたくもないようだ。
相手が誰なのかますます気になってきたが、は絶対に名を明かすことはないだろう。
どうせ断ることとなる相手の立場を考えてという配慮もあるのかもしれないが。
賈クはから見合い相手の名を聞き出すことを諦めると、机上の地図を指差した。
が言う通り、戦える兵はひとりでも多い方がいい。
今回は自分も出陣するし、となれば信頼のおける部下も従軍させるのが筋だ。
仮に残れと言ったところで素直に命令を聞く性質でもなし、だったら初めから目の届くところに置いておいた方が数万倍楽だった。





「曹仁殿の守りは固いだろうが、相手もあの関羽だ。焦ってすぐに仕掛けようとしてくるだろう」
「曹仁様が敗れるなどあってはならないことです。私はすぐにでも曹仁様の元へ行きたいのです」
「そう慌てなさんな。今回ばかりは俺の指示で動いてくれ。そうでないと、俺はあんたを守り切れる自信がない」
「でも・・・!」





 そんなにまだ俺が信頼できないのかと尋ねてみると先程までの威勢はどこへやら、しゅんとなったがいいえと小さな声で答える。
曹仁は、にとっては曹操たちと同じく親のような存在だ。
彼の温和な性格から、もしかしたらは曹操よりも彼の方に懐いていたかもしれない。
だから居てもたっても居られないのだろうし、単独行動をしてでも曹仁の元へ向かいたいのだ。
だが、だからこそ彼女の独断を認めることはできない。
多少は使って当然の権力を使ってでも、無事でいさせなければならない。
命の危険を晒してまで救援にきた娘同然の可愛いの姿など、曹仁は決して迎えたくはないはずだ。





「ただもちろん樊城の防衛は最重要だ。俺の隊にこちらに戻っていた楽進殿と李典殿を加えた編成で曹仁殿の救援に向かう」
「李典様もですか?」
「何か問題か? あの2人なら気心も知れてるだろうし、あんたとしちゃ動きやすいと思ったんだが」
「それはそうですが・・・でも・・・」




 珍しく仲違いでもしたのだろうか、歯切れの悪い返事ばかりだ。
つい先日も3人で飲んでいたと聞いていたが、誰もが我が強いので収拾がつかなくなったのかもしれない。
しかしには悪いが、ここは2人の参陣も受け入れてほしい。
再編され間もなく、数も決して多くはない隊にとって2人の将軍の力は大きい。
賈クはひととおりの状況説明を終えると、の伏せられたままの顔を覗き込んだ。
険しい表情と浮かべているままで、見られているとも気付いていないらしい。
賈クはにおいと声をかけた。





「そんなぼんやりした状態で本当に出立できるのかねえ。やっぱりやめとくか?」
「・・・いいえ、行きます。申し訳ありません、少し私事で考えていて」
「そうかい」





 様子がおかしいのは確かにわかるが、なぜそうなったのかは深く踏み込まない方が良さそうだ。
上司と部下の関係に留まる今の自分では、何を訊いてもきっと彼女はいい思いをしないはずだ。
彼女が話したくなった時に初めて話を聞けばいい。
賈クは明日の出立に備え宿舎へ戻っていったの小さな背中を見送ると、再び地図に視線を落とした。







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