けものの祈り     11







たくさんの人々に見守れらていながらも、彼女は1人きりだったのかもしれない。
賈クは馬上でぐったりとしているを思いながら、これまでが歩んできた人生を考えていた。
彼女と典韋の仲がどれほど良かったのかはわからないし、知ることもできない。
自分が殺した相手の親しい人を探るなど人として許されることではなかっただろうし、仮にそうしていたら、その作業だけで寿命が尽きている。
は幼い頃から軍にいたという。
男ではなく特別体格の優れた女でもなくむしろ小柄に分類されるが軍に留まっているのは、彼女の居場所がそこしかなかったからだろう。
戦乱の世だから、戦に巻き込まれ親を喪った孤児が現れることは珍しくない。
の場合はたまたま拾われたのが人買いではなく曹操軍で、そこには典韋というおそらくは気のいい兄貴分がいた。
権謀術数に長けた曹操軍にいることがにとって幸せだったのかどうか、きっと宛城でのあの日が来るまではさぞや楽しかったに違いない。
俺はいつもこいつから幸せを奪っていく。
死神、疫病神と罵られてもおかしくないのに、は結局で会った初日しかこちらを襲ってこなかった。
力の差を見せつけられて諦めたのではない。
曹操に諭され納得したわけでもない。
これはあくまでも推測にすぎないが、おそらくは自分が味方となったことで何かを捨てたのだ。
例えば、生きる目標。
一度諦めたものはきっかけがあればまた挑戦しようとする。
しかし、捨てたものは拾えない。
誰かが無理矢理にでもつかませなければ決して手元に戻ることはない。
なぜなら、人は自らの意思で一度捨てたものを再び手にすることを躊躇してしまう外面的な生き物だからだ。
疫病神で死神でもあるこちらは、間接的にでもの命を奪ってしまうらしい。
自分でも思っている以上に、その事実は賈クには痛く辛く悲しいものだった。







































 賈クの最大の才能はもちろん知略もあるが、情勢を機敏に読み取り軽やかに動くことだ。
勇み進軍した地で喫した大敗北を、果たして賈クはどう見ているのだろうか。
多くの兵を失い無残な姿で潰走している軍を見限ってしまったのだろうか。
曹操は劉備軍の猛追を関羽の温情によって辛くも切り抜けた先で、賈クの姿がないことに気付き考えていた。
よくわからない男だった。
典韋を死に至らせた張本人で初めこそ警戒されていたが、いつの間にか周囲に溶け込んでいた。
まるで初めからそこにいた者のような自然な溶け込み方。
それでいい、それがいいと少なくとも曹操はそう思っていた。
しかし、彼が軍の中心に近付くにつれ消えゆく存在もあった。
現に今も彼女はいない。
血を分けた娘ではないがそれと同じくらい面倒を見てきたつもりの、亡き典韋から託された小さな勇者だ。
兵を喪ったのは今だが、は実はもっと前から喪っていたのかもしれない。
気付いていたつもりなのに、彼女はそこまで思い詰めていないと信じていたから彼女の我慢に甘えていた。
本当のはもっと甘えたがりで、泣くことも我慢できず大声で泣き叫んでいた幼子なのに。
仇を取ることも叶わず、生きる目標を失っていた彼女が向かう先は待つべき人がいない未来ではない。
来てほしいとは誰も願っていない過去だ。





「・・・死んだのだろうか」
「は・・・。・・・私が向かった際には船はすべて焼け落ちておりおそらくは公主は、もう・・・」
「あれのことではない。・・・は、逝ったのか」
「それは・・・・・・」
は預かりし者じゃ。わしの娘というだけのあれとは、背負うものが違う」
「殿、なんということを・・・」
「もちろん張遼、お主にはすまないと思っておる。しかしあれはわしの娘だ。の死んだ親兄弟と、典韋からわしらに託されたのだ」





 どんなに目をかけていても、相手が気付いていなければ何の意味もない。
どんなに生きていてほしいと願っても、当の本人にそのつもりがなければ思いは届かない。
の苦しみを知っているから、最後の一歩を踏み出すことができなかった。
踏み出し干渉すればたちまちのうちに壊れてしまうと恐れていたから、決断を彼女に委ねた。
もっと踏み込んでいれば、実の親のように接していれば今日は来なかったかもしれない。
勝ち目のない戦いに死ぬために単身飛び込むという愚挙をしなかったかもしれない。
は死んだ。
そう呟くと不意に脳裏に亡き部下の顔が浮かび、そして消えた。






「ちょ・・・、おまっ、に何しやがった!」
「やめて下さい李典殿! まずは手当てが先です!」
「わかってるけどお前、に・・・!」

「んー・・・、あのまま死なせてやるのが良かったのかな。こいつが望んだとおり、死なせて典韋殿のとこに逝くのを見送ってやった方が良かったと?」
「賈ク、お前!「落ち着いて下さい李典殿!」




 感極まってを送る詩のひとつでも編もうと思っていたが、突然の喧騒に思考が寸断された。
喧噪へと視線を移すと、激昂しているらしい李典が賈クの胸ぐらをつかみ、睨み合っている2人を楽進が必死に止めようとしている。
馬上には生きているのか死んでいるのかわからないが、血を大量に吸った戦袍を身に纏っている小柄な体がぐったりと乗せられている。
布が吸いきれなかったらしい血が手や足を伝い地面に滴り落ちている様は、見ているぞっとする。
あれが消えた存在だとしたら尚更だ。
曹操はゆっくりと馬に歩み寄った。
よほど逆上しているのか、李典が賈クを殴る。
ああ、こやつはこれほどまでに愛されているのに、気付いておらなんだか。
曹操は馬上の体にそっと触れると、と名を呼んだ。
返事はなく、指がただじっとりと血で濡れる。
敵陣を駆け回り必死に連れ帰ってきた賈クは気付きもしなかったのだろうが、矢も刺さっている。
その姿はのようで、ではなかった。




「賈クよ」
「・・・はっ」
「お主の知ったはもう、おらぬ」





 と賈クと、そして典韋の戦いが終わった。







分岐に戻る