けものの祈り     12







 目の前に、ずっと会いたかった人がいる。
今度一緒に遊ぼうと約束してそれきり叶わなかった、今はもういないはずの人がいる。
いないはずなのにいるのは自らもまた、いない人になってしまったからに違いない。
やっと会えた。
は懐かしい大きな背中に駆け寄ると、典韋と呼び抱きついた。




「典韋、いた!」
「んあ? っておめえ、なんでこんなとこにいやがんだ!」
「私もこっちに来ちゃった」
「こっちって・・・。・・・どうしたその格好。まさか、戦ってたのか?」
「私だってもう子どもじゃないし、殿にお仕えする兵だもん。戦わないとご恩は返せない」
「・・・・・・」
「私ね、ずっと典韋に会いたかったんだよ。だから今、すごく嬉しい」





 嬉しいと言っているのに、典韋はちっとも喜んでくれない。
そしてこちらも、とても嬉しいはずなのに上手く笑えない。
典韋はを見下ろすと、わしはと呟き小さく息を吐いた。




「戦って、死んじまったのか」
「そうだと思う。でも殿をお守りすることができたんだよ」
「本当にそうなのか?」
「え?」
「おめぇが死んじまってたら、ほんとに殿をお守りできてたかわかんねえだろうが」
「だ、大丈夫だよ! 殿の周りには強い将軍方がおられるし許チョだっているし、私なんかいなくなっても平気「馬鹿野郎!」





 生きている時も死んでからも、典韋に本気で叱られるの初めてだった。
昔の典韋はいつも優しかった。
回りは皆怖いだの恐ろしいだのと言っていたが、怖いと思ったのは今が初めてだ。
は恐る恐る顔を上げると、鬼の形相の典韋と目が合いひっと叫んだ。





「おめぇはなーんもわかっちゃねぇ。自分ひとりいなくても平気? そりゃ、兵としてのなんざむしろ足手まといに違いねえ。、わしらにとってのおめぇは兵じゃなくてでさあ」
「で、でも私は志願して兵になって、戦ってきて、それで・・・」
「わしはわしの代わりをしろなんて頼んだか?」
「・・・されて、ない・・・・・・」
「なんであの時殿がまだちっこかったを拾ったか考えたことはねぇのか? 生きてほしかったからに決まってんだろうが。
 生きて、生きて、死んでほしくなかったから育ててきたに決まってんだろうが。おめぇの一番の殿やわしらへの恩返しは、元気に生きてることなんだよ」





 なぜ、今になってそんなことを言うのだ。
典韋と会って話せるようになった今それを知ったところで、もはやどうにもならないではないか。
ただ何もせず生きているだけでいいなど、そんなものが恩返しだと思えるほど自分は自分に甘くない。
もっと形のある、目に見えるものを為さなければ頂いた恩は返せないとしか思っていなかった。
曹操を乱戦の中で逃がし、殿軍となり時間を稼げたことでやっと生き続けてしまった理由を清算できたと思っていた。
今更生きろと言われてももう無理だ。
はこみ上げてきた涙を破けた戦袍の袖でぐいと拭うと、できないと叫んだ。





「だって、もう私死んじゃったんだもん! もう生きられないもん! もう、もう、無理だもん・・・!」
「・・・ったく、図体だけでかくなっても中身はガキのまんまじゃねぇか・・・。いいから今すぐ帰れ、でもって殿に謝れ」
「帰れるの・・・? 帰れるなら典韋も一緒に・・・」
「馬鹿言うんじゃねぇ、わしゃあお役目は果たした。早く帰って殿の無事なお姿を見てきやがれ、ほら」
「わっ」





 どんと背中を押されると、急に床が抜けたかのような感覚に襲われ体ががくんと落ちる。
わしゃあいつでも見守ってるぜ、
遠くからそう聞こえた気がして、はうんと答え目を閉じた。









































 生き返ったのかただ単に目が覚めただけなのか、とにかく、見慣れた宮城を再び歩けるようになるまでには相当の労力を要した。
典韋に言われたとおりに素直に謝ったのに曹操からは生まれて初めて張り手を飛ばされ、あまりの衝撃に思わず泣いていたら夏侯惇や曹仁に半日説教された。
夏侯惇からならまだしも、普段温厚な曹仁の怖い顔を見てそれにまた衝撃を受け逃げるように寝所を出て歩いていたら、歩いていただけなのに李典から抱きつかれ首を絞められた。
楽進の馬鹿力で腕が千切られる恐怖も味わったし、生きていてもろくなことがない。
唯一優しい言葉をかけてくれたのは張遼だったが、彼が言ってくれた『そなたは無事で良かった』の『そなたは』という言葉に彼の並々ならぬ悲しみと怒りを感じ、なんとも切ない気分になった。
聞けば、かの姫君は張遼が妻とする予定だったらしい。
様々な意味で辛くなった。
本当に、生きていてもいいことなど一つもない。
戦の後、は曹操直属の扱いになっていた。
いつの間にやら賈クの配下の任を解かれていた理由は誰も教えてくれなかったが、それにしても会うなとまでは言わなくていいと思う。
賈クは今でも恨み、憎むべき典韋の仇だ。
向こうだって命を付け狙うこちらを決して快くは思っていなかっただろうに、彼は赤壁の地で危険を顧みず救出に乗り出したらしい。
自分があの時どこでどんな状況で戦っていたかはよく覚えている。
味方などいない、周りはすべて敵の中で矢ぶすまになるつもりで戦っていた。
死のうと思っていた。
ここでならば誰も死ぬことを止められない、やっと死ねると思っていた。
死なせてくれるはずだった。
生きているうちでの、最後の夢が叶うはずだった。
大嫌いな上官が現れるまでは。





「どうした、
「夏侯惇様」
「まだ気分が優れんのなら大人しくしていろ。もっとも、お前はもう戦には出れんが」
「・・・戦いに出られない傷を作ったから賈ク様から外された、と?」
「孟徳の指示だ、俺は知らん」
「賈ク様は今はどちらに? 私を生かしたのはあの方だと聞きました」
「会わせるなと言われている」
「では見に行きます。何もしません、何も言いません。私は、死んだ身ですから」

「殿や夏侯惇様が思っていられたように、私は死にたかったんです。だからあの場にいたことは本望でした。でも、今の私は死にきれなかった私ではなくて生かされた私です」





 ごめんなさい夏侯惇様、今までずっと心配ばかりかけてきて。
そう告げて少しだけ笑うと、夏侯惇が面食らったような顔をする。
昔には戻れないし、昔の人にももう会えない。
過去を振り返っても見えないし、見えていて進めるのは先だけだ。
は夏侯惇の前を辞すと、賈クがいるであろう彼の執務室へと足を向けた。







分岐に戻る