けものの祈り     13







 死にたくても死ねない体なのではないだろうか。
今は部下ではなくなったたった1人の兵の消息を伝え聞いた時、真っ先に思ったのがそれだった。
赤壁の地で、確かに彼女は死んでいた。
馬に引き上げ曹操の元へ戻れはしたが、彼女は息をしていなかった。
守りきれなかったはずだった。
許昌へ帰還してからは様々なことで忙しく、気が付けば彼女は部下から外れていた。
死んだからだと思っていた。
特段軍で疎外されているわけでもないのに、誰も彼女の安否を教えてくれなかった。
だからこの情報も、兵卒たちが集う雑然とした食堂で聞いたものに過ぎない。
そうまでして彼女を気にしてしまう自身がおかしくもあり、切なかった。
こちらがどんなに彼女を思いやっても心を傾けてもにとって賈文和とは永遠に仇敵なのだ。
決して相容れない、憎むことは数あれど慕い好意を抱くことは永劫起こりえない最悪の男なのだ。
主君の心を変えることは策を弄せばできなくもないが、の頑なな心はどんな手を尽くしても変えられない。
それが自分との関係だった。





「んー・・・、俺の中では死んだってことにした方が良さそうだ」





 曹操の気まぐれか何かの事故か、交わらない方が良かったはずの縁は初めからなかったと思った方がいい。
などいなかった。
いや、彼女のようにこちらを憎む者の存在は否定しないが、特別意識するような人物はいなかった。
自分自身に策を施すのは初めてだ。
賈クは小さく自嘲の笑みを浮かべると、執務室へと足を向けた。





































 どこへ行くにも不便でたまらない。
たかが執務室へ行こうとしていただけなのに、それすら見咎められるとは思っていなかった。
不本意だが、以前と同じように待ち伏せするしかない。
あの時は軍の中枢に加わった奴のことが許せなくて、典韋の仇を討つためだけに身を潜めていた。
自分が死んでもいいから相手を殺したいとしか思っていなかった。
大好きな人だけが殺され、憎い敵ばかりが生き永らえていることがたまらなく辛くて悲しくて悔しくて、受け入れられなかった。
しかし大好きな人を倒した相手はとても強くて狡猾で、情けをかけられたことがこの上なく嫌だった。
直属の部下にされてからも奴のことが本当に憎くて、奴の弱味を見つけ復讐を果たしたい思いで常に溢れていた。
そして、奴を殺すのはどこの誰ともわからない敵兵ではなく、自分しかいないと思っていた。
だから奇襲に遭った時も自らの目標を達するためだけに行動した。





「・・・でも、あの人は」




 なぜ助けたのだろうと思う。
向こうだって、命を狙われなくなれば今よりももっと平穏に暮らせることは確実なのだ。
今までは賈クの気持ちなど考えたことがなかった。
考えようと思ったことすらなかったし、そもそも考えたくなかった。
気が変わったことは否定できない。
自分をよく見つめる。
それはが賈クの元で学んだ心得だった。
息を潜め機会を窺う、退くべき時は迷わず退く。
賈クは、まるで自分に急襲されることを望んでいるかのような口ぶりで戦法を教えた。
は賈クから学んだ通りの方法で宴帰りの賈クを待ち伏せていた。
今回は、たとえ相手がどんなに酔っていようと決して刃は向けない。
そう思っていたから丸腰で来た。
心を鎮め、訊きたいことだけを訊く。
賑やかな宴会場からぞろぞろと名だたる将軍たちが現れる。
ひととおり見過ごし、人もまばらになったころにようやく現れ出た闇色の男にはごくりと唾を飲み込んだ。
賈クが目の前をゆっくりと歩く。
ちらりと身を潜めている草むらに視線を向けられた気がしたが、心を落ち着かせる呼吸を整える。
やがて賈クが通り過ぎた時、は音を立てることなく賈クの背後へ回った。






「・・・・・・」
「んー・・・、闇討ちにしては殺気を感じないんだが」
「闇討ち?」
「俺はあんたの仇。殺しに来るのが遅いくらいだ」
「そんなに殺されたいんですか」
「そうなることであんたが少しでも、今度でも満足できるんなら」





 自分ではを救うことはできない。
肉体を刃から守ることはできても、自らが彼女の心をもっとも傷つける存在である限り彼女のことは真には救えない。
この世に未練はまだまだあるが、にならば殺されてもいいとすら思ってしまっていた。
そうでしか彼女の呪縛を解くことができないのであれば、試しに斬られてみるのも一つの手だった。





「・・・身に寸鉄も帯びてないで、どうやって俺を倒すつもりかな」
「殺しに来たのではありません。私はあなたに訊きたいことがある」
「冥土の土産ってやつかい?」
「なぜ、私を生かしたのですか」





 真面目なに冗談は通じない。
感情をまるで感じられないの問いは、彼女を生かしてしまった賈クの胸に思った以上に鋭く突き刺さった。
死にたがっていた彼女から責められているような気分になり、賈クはゆるゆると首を横に振った。





「死んでもらった困るから生かした。それで満足かな?」
「困る? なぜ?」
「別に戦略的な理由じゃあない。俺はあんたに命を狙われてるし、妙な話だが最近はあんたになら殺されてもいいって思うようになった。
 だったら俺を殺す予定のあんたが先に逝っちゃあ困るってもんだ」
「どうして私に殺されたいと? 理解できない」
「あんたこそどうして俺を今ここで殺らない?」
「殺す理由がないからです」
「んー、俺の言ってることとあんたの話、どうも噛み合わない」





 典韋様に会ったんですと呟いたに、思わず肩が揺れる。
死んだ人間に会ってきたなど正気の沙汰ではない。
冥土へ行って戻って来た者などいない。
ではやはり、彼女は死んでいたのか。
死んで、けれども恨みや心の頃があってこちらへ留まらざるを得ない状況なのか。
何もかも、すべて自分のせいとしか思えない。
賈クは相変わらず無表情のままのを見つめると、すまないと言って頭を下げた。







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