けものの祈り     終







 自分が知る賈クは、こうも弱々しくはなかった。
少なくとも殊勝に頭を下げるような男ではなかったし、謝罪する彼を望んだこともなかった。
謝罪はいらないから殺したいとしか思ったことはなかった。
だから、何に対して謝られてもまったくぴんとこないし心に響くものも何もない。
は済まないと言ったきりの賈クを、自分でも驚くほどに冷ややかに見下ろしていた。




「何のつもりですか」
「死んだ奴を見るくらいに逝きたがってたんだろう。俺は自分でもそれなりの策士とは思っちゃあいるが、あんたの心だけはどうしても読めなかった」
「私もあなたの考えがまったくわからない。なぜ私を生かしたかったのか、理由が知りたい」
「・・・んー、これは言わないとまずいかな」
「言いたくないのならば結構です。・・・賈ク様、私は、あなたに生かされたことを悔いてはいません。感謝しています、今だけは」





 殺された悲しさと生き残ってしまった辛さと殺せない悔しさと、生かされた喜びをあなたは全部教えてくれました。
がどんな表情でそう語っているのか、月の光だけで窺い知ることはできない。
だがそんなものはどうでもいい。
生かされること、生きていることを喜びと感じてくれているのならば、それでいい。
からは何もかも奪ってきたが、生きようとする力を授けられたのであればそれだけで充分だ。
もうこれ以上は何も望まない、望んではいけない。
これがきっかけで彼女との仲が好転するかもしれないだなんて、そんな淡い期待など抱いてはいけない。
そう思うことが許されないのだから。
賈クはゆっくりと夜の闇の中へ消えようとするの腕を思わずつかみ、呼び掛けた。




「あんたが俺を殺しに来る日まで、俺は何をしてでも生き延びておく。だから・・・だから
 あんたのことも、俺を倒しに来る日まで何があっても死なせない。あんたが何と言おうとこれ以上俺を嫌おうと、これだけはさせてもらう」
「・・・そう、ですか」
「ははっ、どうだいこの嫌がらせは」
「あなたらしいと思います。大嫌いなあなたらしい意地悪で非道な・・・、最高の嫌がらせ」






 あなたのせいで私はいつまでも典韋様とお会いできそうにないようですと話すの声は、心なしか弾んでいるように聞こえた。







































 薄々どころか重々承知していたが、はとても遠いところにいる。
殺される日まで守ってやると大宣言したところで、に近付けはしない。
むしろ今までとつい先日の出来事のせいで、以前以上に彼女との距離が開いてしまった気もする。
生きる覚悟を決めたことは大いなる前進で非常に喜ばしいことだが、だからと言って彼女がこちらに歩み寄ることはない。
遠ざかるばかりで、一向に彼女に近づける気配はない。
は多くの人々に愛されている。
曹操からは実の娘のように育てられ、古参の将たちからは娘だ妹だか、表面上はともかくべたべたに甘やかされている。
彼女に好意を抱いている者もいるようだし、遠目の薄目で眺めるしかないこちらは気が気でない。
別に恩を売り歩きたいわけではないが、今がこうして生き永らえているのは死闘の中身ひとつで救出へ向かった自身のおかげなのだ。
そうだというのに何なのだ、この差は。
どこぞの誰かのように褒美として妻に迎えたいとは言わないが、もう少し考えてくれてもよいではないか。
彼女は宗家の姫でもなんでもない、ただの一兵卒に過ぎないのだ。





「ん・・・? 妻?」




 今、妙なことを思いついた気がする。
思い浮かんだどころか、変な想像すらしてしまった気がする。
どうやらいよいよ焼きが回ったらしい。




「賈ク様」
「んー・・・、ここはやっぱり殿に直談判するしか・・・」
「賈ク様」
「ああ今取り込み中だ。悪いが後にしてくれ」
「そうですか」
「・・・・・・いや、待て。あんたどうしてここに?」
「一応ご報告に、と」
「報告?」
「既にお聞き及びかもしれませんが、このたびまたお世話になることになりました。以後お見知りおきを」
「・・・・・・はあ?」





 どことも知れぬ戦場で誰ともわからぬ敵に勝手に殺されていては私の生きがいがなくなりますゆえ、私は監視です。
そう淡々と告げるが冗談を言っているようには思えない。
生真面目で、真面目すぎて自らを破滅に追い込みかけていたが冗談を言えるはずがない。
しかし、が自ら志願したのだろうか。
こちらはまだ今から相談に行こうとしていたし、曹操が彼女を因縁の相手である自分の下へ再び寄越すとは思えない。
ともすれば二度と戦場へ出さないつもりだっただろうから、尚更以外の意思とは考えにくい。
何がどうしてこうなってくれたのだろうか。
訝しげな表情を浮かべていることが気に障ったのか、は温もりをまるで感じさせない目で賈クを一瞥すると何か問題でもと尋ねた。





「お嫌であれば外して下さって私は一向に構いません」
「俺の下じゃなかったら誰のところへ行くつもりだい?」
「張遼様、楽進様、李典様。いずれも対孫権軍戦線の最前線へ赴かれる方々です」
「あんた、まだ死にたいのか」
「たとえ私が死にたいと思っていてもあなたはそれを阻止されるのでしょう。だから私は選びました、あなたを」





 もしもこれから先また自分で自分を捨てたくなる時がやってきても、賈クがいれば踏みとどまれるかもしれない。
頼ってしまうのはいけないことかもしれないが、自分で立ち止まれないところまで来ていても賈クならば止めてくれるかもしれない。
それだけのことができる、やってほしくないのに手を回してくるのが賈クだとは知っていた。
だったら、少しだけでいいから彼を信じてみようと思う。
この世で一番憎い相手を信じるのは負けた気がしてほんの少し悔しいが、いつか絶対に越えるべき相手だと心に決めているから、今は彼の懐に入ってみようと思う。
譲歩したのではない、踏み込んだのだ。
一歩踏み出す術を教えてくれたのだ。
それがには、どんなに優しくされることよりも嬉しかった。






「はあー・・・、あんた潔いな、惚れちまいそうだ」
「そうですか」
「動揺もしないとはなかなかこれは厳しいかな」
「厳しい?」
「いや、こっちの話だ。・・・殺したくなった時はいつでも言ってくれ、
「はい」





 あくまでも勘だが、がこちらの命を奪おうとする日は当分来ないと思う。
それは上に禁じられているからとかではなくて、が落ち着いているからだ。
が典韋を忘れることは永劫ないだろうが、彼との思い出は徐々に遠ざかっていくだろう。
ようやく歩き始めた彼女に、思い出は追いかけることができない。
これからしばらく楽しくなりそうだ。
にやりと口元を緩めながら呟いた賈クは、その晩背後から急襲された。









  ー完ー







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