けものの祈り     2







 たった一度きりしかない人生を、乱世だったからという理由だけであっさりと散らしたくはない。
策を巡らすことで生き延びることができるのならば、相手が天下に仇なす逆賊と罵られた男相手だろうと献策した。
悪事には加担しないという高潔な志を持っていたがゆえにせっかく宿した知恵を披露することができず、ただ無意味に死んでいくのは耐えられない。
乱世を生き抜くためにはそれ相応の泥臭さが必要だ。
それに、乱世には小者もいれば傑物もいる。
かつて自らが愛する部下を策によって殺されたにもかかわらず、忠臣を喪うに至らせた才能を持つ自身を軍に迎え入れる英雄も現れる。
賈クは今日から新たに主となる男の本拠地を見上げると、むうと眉根を寄せ顎に手を添えた。




「治世の能臣、乱世の姦雄ねえ・・・。いやあ、さすが姦雄は目の付けどころが違う」




 張繍の配下として曹操に会った時から、こいつは主とはまるで器が違う男だとは感じていた。
消せるものならばすぐにでも消しておかなければ主の命はないと思い、だから夜陰に紛れ曹操を誅そうとした。
美女に現を抜かした曹操1人であれば、あの夜彼は死んでいた。
簡単に死ぬはずだった曹操が今日まで生きているのは彼の忠実なる護衛、悪来の異名を持つ典韋の奮闘があったからだ。
典韋は策士ではない。
ただ、主に迫る危険を察知し主を逃がしたいという思い一心で立ち向かった。
呂布とは違う強さが典韋にはあった。
自分とは真逆の生き方をする、乱世を生き抜くには不器用すぎる男だと思った。
だがおそらく、自らを殺めた存在に自身を語られ考えられることなど典韋は嫌だろうが、典韋はたとえ自分が乱世を越えられない不器用者だろうと、主を守りきれれば満足したのだと思う。
現に彼は曹操の姿が見えなくなりこちらが追撃を断念するまで、息絶えていたにもかかわらず立ち続けていた。
そうまでして守られる曹操が羨ましいと思い、魅力を感じた。
だから今、自分はこうして曹操軍にいるのだと思う。





「蛇が出るか鬼が出るか、何にせよ退屈はしなさそうだ」
「退屈などさせるつもりはない。わしはお主の才を買ったのだ。その才、覇道のために存分に使ってもらうぞ」
「あははあ、こりゃまたきついお言葉で。賈文和、仰せのままに策を献上いたしましょう」
「うむ。・・・わしの天下を望むはわしや生きてここにおる者だけではない。楽しみにしているぞ賈ク、お主がわしをも陥れた策を打ち出す日を」




 曹操は超合理主義者らしい。
しかし曹操には生死を問わず、自らを頼り仕えた者たちすべての思いを受け止めている人の温もりもある。
どうやらこの男を一瞬でも殺せると思っていた自分はまだまだ浅はかだったようだ。
賈クは典韋亡き後護衛となった許チョを従え宮城へ消える曹操を見送ると、神妙な面持ちで頭を垂れた。




































 ついにこの日がやって来た。
は自室で丹念に磨いてきた短剣を天にかざすと、月に反射してきらりと光った刀身に目を細めた。
曹操の人物収集癖は今に始まったことではない。
昔よく衣の袖に隠していたお菓子をこっそりくれていた荀彧も曹操の収集癖で仕えるようになったし、顔を合わせればすぐに学問に励みなさいと口やかましく言い立ててくる程昱も
曹操と荀彧が見つけた才能人だ。
近付くなと言われている郭嘉もそうだし、きっと他にも多くの将たちが曹操の類稀なる人物眼に見出され集ったのだと思う。
しかし、今日だけはやめてほしかったし理解できなかった。
なぜ奴を登用したのか曹操の真意が測りかねる。
まさか曹操はあの日を、大好きな典韋を殺され喪った日を、恨みを、憎しみを忘れてしまったのだろうか。
いや、忘れてなどいないはずだ。
忘れていないから賈クの知略に魅力を感じ登用を決めたのだ。
才能さえあれば誰でもいいというのか。
今日から賈クの指示で動くようにと言われても動きたくない。
また味方を殺されてしまいそうで、そうなるのであれば先に奴を亡き者にしたい。
今宵は賈クの参陣と日頃の労をねぎらっての酒宴が催されるという。
将兵が多くいる曹操軍の宴は盛大だ。
時が経てばそこかしこで力比べが始まり、才人たちは詩の腕を競い合う。
気が付けば顔なじみの女官は色白の優男と共に闇に消えていく。
酒宴には出席するが、いつも長居はしない。
程良く酒を飲むとふらりと消え、離れの四阿で1人で膝を抱え夜空を見上げている。
いつも1人きりの特等席がは大好きだった。
目を閉じれば、感覚が研ぎ澄まされ気持ちが落ち着く。
かつての敵とはいえ、自軍に迎えた者を私怨で手にかければ当然罰せられ斬られることもありうる。
規律に厳しい曹操軍ならば確実に命を絶たれるだろう。
しかしはそれでも躊躇うつもりはなかった。
大好きな典韋は死んだのに彼を殺した元凶が今ものうのうと息をして、今日から同じ軍で同じ空気を吸い同じ食べ物を口にするのが耐えられなかった。
生きながら辱めを受けている気分にさえなり、吐き気を催す。
刺し違えてもいい、こちらが死んでもいいから奴を殺したい。
生かしておくことを許せない。
は自らが死ぬことには何の恐怖もなかった。
死ねば典韋の元へ行ける、だから早く死にたいとすら思っていた。
こちらの思いを知っているからだろう、曹操たちはどんなに鍛錬を重ね武芸を磨いても前線に配置してくれることは一度もなかったが。
賈クはおそらくこちらを知らない。
知らない方が都合がいい。
は短剣を袖に仕舞うと四阿を出た。
闇に溶け込む闇しか似合わない憎き仇が酔っているのか、ふらふらとした足取りで宮城から抜け出しほとぼりを覚ますつもりなのか中庭を彷徨っている。
願えば敵はやってくるものだ。
は高ぶる気持ちを抑え、賈クに向かって歩き始めた。
すれ違う直前まで平静でいよう。
すれ違った時に確実に奴を仕留められればいい。
所詮相手は非力な軍師文官だ。
あの日の惨劇から毎日武を磨いてきたこちらの敵ではないはずだ。
は四阿へ向かおうとする賈クとちらりと目を合わせると小さく会釈した。
お前に頭を下げるのは今日が最初で最後だ。
賈クとすれ違いざま音もなく短剣を取り出し突き刺そうとしたは、おっとというおどけた声と共に短剣を隠し持っていた手首をつかまれ小さく舌打ちした。





「恨みがあるのかもしれないが、早まったことはやめとけ」
「うるさい、離せ!」
「ははーん強情なお嬢さんだ。俺のためじゃあない、あんたの命がなくなるからやめとけってこりゃ忠告だ」
「そんなものはいらない! 私はお前を、お前を倒すために今日まで生きてきたのだ!」
「・・・威勢がいいのはいいことだ。だが、」




 威勢だけで倒せるほど俺は浅はかじゃあない。
手首を強く叩かれ、痺れた手から短剣が零れ落ちる。
すかさず足払いを繰り出し相手を蹴倒そうとするが、ひょいと逃げられたどころか背後に回られ背中を踏みつけられる。
たかが軍師、机上で謀略を練ることしかできないにしては戦い慣れている。
聞いていない、奴がこれほどの武芸者だとは思わなかった。
ぐうと呻き声を上げたが地面に転がる短剣を取ろうと手を伸ばすと、おっととこれまた楽しげに言われ今度は短剣を遠くへ蹴られる。
悔しい。
目の前にいるのに倒せず、後れを取るどころか完全に舐められていることが悔しくて情けなくてたまらない。
時が経っても、兄代わりが勝てなかった相手には今も勝てないままなのか。
地面に倒れたきり動かなくなった体から足を退けると、賈クはの襟首をつかみ乱暴に持ち上げた。
軍に自身を快く思っていないものが少なからずいるだろうとは思っていたしだからそれなりに用心していたが、まさか初日に女から命を狙われるとは考えていなかった。
見つかればどうなるのかわからない歳でもなかろうに、それでもいいと叫び果敢に立ち向かってきた彼女に対して少し本気になったのは大人げなかったと思う。
本気を出さずとも女1人くらい簡単に伸すことができるし、向こうはこちらが文官と思い油断したのかもしれないが、ただ策を練るだけで生き残れるほど乱世は優しくない。
命はあっという間になくなるのだ。
賈クは決して目を合わそうとしない娘の顔を強引に自身に向かせると、よく見ておくこったと言い放った。





「これがあんたが殺したくてたまらない憎き仇の面だ。どうだ憎いだろう。俺を殺したいならせいぜいもっと腕を磨くことだ。生憎俺は、半端者にくれてやる命の安売りはしないんでね」
「・・・・・・」
「あんたが俺を憎もうが恨もうが今日から俺は殿の軍、つまりあんたの上官様だ。酒はほどほど、大局を見失いなさんな」
「情けをかけるつもりか! 兵に殺されかけたと殿になぜ言わない! 言えば私は罰せられきっと死ぬ。そうすればお前の命を狙う者もいなくなるだろう!」
「あんた1人に手を焼くほど俺は不器用な生き方してないんでね。あんたは酒に酔って俺に絡んだ、俺はそれをいなした。それで充分だ」




 話は終わったとばかりに立ち上がり、飄々とした足取りでどこかへ消えていく賈クの背中を見送る。
追いかけて背中から刺してやりたいが、踏まれた首が痛くて起き上がることもできない。
地面に無造作に転がる短剣の磨き上げられた刀身が放つ光が眩しくて涙が出てくる。
悔しい、悔しい、悔しい。
悔しくて涙が止まらなくなり、えぐえぐと泣きじゃくる。
散々泣きに泣き泣き疲れ眠り目覚めた翌朝、は幼い頃にはよくお世話になっていた曹操の寝室の天井をぼんやりと見上げていた。







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