けものの祈り     3







 昔から泣き虫だった。
初めて見つけた時もわんわん泣いていたし、事あるごとによく泣く元気な娘だった。
あれだけ泣いても声も枯れずきちんと喋ることができるはもはや泣きの達人とさえ思っていた。
典韋が死んだ日を境に人前では泣かなくなっただが、昨夜は久々に大泣きしたらしい。
泣きすぎて疲れて寝るなど最近の彼女からは想像できなかったが、きっとそれだけ昨夜の涙は重く苦しいものだったのだろう。
曹操は目の周りを赤く腫らした寝台のを見つめると、気が済んだかと尋ね腰を下ろした。





「酒に酔って泣いて寝て、わしの寝台はさぞや寝心地が良かったろう」
「・・・申し訳ありません」
「私は何も聞いておらん。・・・それほど悔しかったか、あやつを我が軍に加えたことは」
「・・・・・・はい」
「お主ならばそう言うとは思っておった。しかし一時の感情に左右されていては我が覇道はならん。わしが目指し典韋が望んだ覇道のためだ、良いな」
「わかっています。ですが、わかっていても許せません・・・! 殿、天下とは、覇道とはあの男の力を使わねば取れぬものなのですか?
 荀彧様や郭嘉様の策ではいけないのですか!?」
「賈クの謀略はわしをも欺く鋭さを持つ。この才が他へ渡るのは避けたい。かといって亡き者にするのは惜しい。それに、私はあの男を信じておる」
「信じる? そんな、そんなことは「!」





 尚も言い募ろうとするを制した曹操が、ふっと口元を緩めとんとの頭に手を置く。
の言いたいことはよくわかるし、言いきれない内に秘めた思いも理解しているつもりだ。
は今でこそ軍人だが元は軍人ではないから、気持ちの割り切り方が上手くない。
それがの長所だし、こちらとしても彼女にはこれからもそうあってほしいと思っている。
を軍人にさせるつもりは今も昔も微塵もない。
道端で拾い軍に同行させはしたが、いずれは城で育てしかるべき家の養女にでもして良縁へ嫁がせてやるつもりだった。
それがどうしてだかお世辞にも子ども受けがいいとは思えない典韋に懐き離れたがらなくなった。
典韋がずっと生きていれば、は今頃は強引にでも軍から引き離して両家の娘のような成長をしていた。
彼が死んだから、彼を謀殺した賈クに並々ならぬ復讐心を抱いたは武器を手に取り兵としての道を猛進することになったのだ。
そして何も訊かなかったが、昨晩は何の因果か同じ釜の飯を食うことになった賈クを誅そうとして返り討ちにされた。
本当に元気な娘だ、自分はいつ死んでもいいとしか思っていない危険な娘に育ってしまった。
やはり彼女からすぐにでも武器を取り上げなければならない。
そうでもしなければ、はやがて自ら死地へ赴くだろう。





よ、今からでも遅くはない。軍を離れ城に残るがよい」
「殿の仰せであろうとそれだけはできません。私はもっと強くならなければならないのです。そう決めたのです」
「たとえ強くなったところでお主に賈クは殺せぬ。これからお主にとって我が軍は居心地の悪いものとなろう。仇が目の前にいても手を出すことの許されぬ日が毎日続く。それでも良いのか?」
「私には殿や殿率いる軍にしか元より居場所はございません」





 帰る家も待ってくれる家族も何ひとつ持たない自身が、今更大きな都と城の中以外で暮らしてはいけない。
軍に拾われ武人たちに懐き慕うようになった日から、家族は軍の中にしかいない。
賈クをすぐには殺せないことは、悔しいが昨晩わかった。
しかし、今は無理でも今よりもっと力をつければ奴を倒すことができるかもしれない。
軍にいるからと言っても、まさか毎日顔を合わせることもなかろう。
一兵卒に過ぎないこちらと違って向こうはお偉い軍師様なのだ、忙しくて幕舎から出ることもそうあるまい。






「・・・わしに逆らうとは、お主も大きくなったものよの」
「申し訳ありません」
「よい、それでこそよ。だがこれだけは誓え。みだりに死を選ぼうとするでない。お主はわしらにとっても大切な家族であることを忘れるな」
「もったいないお言葉でございます」





 曹孟徳も人の子だ、幼い頃から何くれとなく目をかけ育ててやった戦場育ちの娘を失いたくない。
自身もまた他者にとっては命に代えがたい存在だということをはわかっていないのだろう。
曹操は神妙な面持ちで頷き部屋を後にしたの小さな背を見送ると、深くため息をついた。






































 命を狙ったのは取るに足らない娘だったが、相手のことを何も知らないままというのも気味が悪い。
しかし、ただの兵ならばともかく同じ兵とはいえ妙齢の娘のことを訪ね調べるのは少々難しい。
あらぬ誤解を生みたくないし、それがきっかけでまた彼女に恨みを抱かれ下手を起こされると次は庇ってやれないかもしれない。
賈クは他の兵たちと黙々と鍛錬に励む仏頂面の娘を木陰で居眠りするふりをしながら横目で見ると、あれは重傷だと独り事を呟いた。
可愛い盛りの娘が眉ひとつ動かさず武器を振るっている。
仲間たちと話していても表情が変わることはなく、心が宿っているのかすら不安になる。
昨夜はあれだけ感情を剥き出しにしていたのに、日中の彼女はまるで別人だ。
よほど自分は嫌われているのだろうな。
戦況を一変させることはできても人の感情を逆さにする術を持たない賈クは、早々に降参の意を込め小さく手を上げた。
どうやら彼女は、自分を殺すためだけに生きているらしい。





「んー、難攻不落ってやつかねえ・・・」
「許昌のことでか?」
「いや、確かにここも攻めにくくはあるが手がないわけではない・・・おっと、これはこれは張遼殿」





 失礼すると律儀に断ってから隣に腰を下ろした猛将を、賈クはまじまじと見つめた。
過去が過去だからそう簡単に将たちと打ち解けられないと考え長期戦を覚悟していたが、まさか張遼に真っ先に話しかけられるとは思いもしなかった。
凄まじい武勇を奮う彼だが、意外と根は温厚なのかもしれない。
張遼は賈クが眺めていた先を見やりああと声を上げると、珍しいですかなと尋ねた。





「珍しい、とは?」
「我らのようなむさ苦しい男ばかりの中に女性がいることが」
「んー、まああんまり見はしないかな」
「私も戦場で武器を手に取る女性を見るのは貂蝉殿に続くが2人目だ」
? あの子の名前ですか、それが」
「いかにも。私も詳しくは知らぬが殿や夏侯惇殿、夏侯淵殿や曹仁殿に幼少の時分から可愛がられていたという」





 私も人伝に聞いただけだが、真面目ないい子だ。
張遼が言う通り、確かには真面目に一心不乱に武芸を磨いている。
しかし、彼女が強くなろうとする理由がこちらを倒すためだと知っているからすぐには感心できない。
彼女の勤勉さは危険なのだ、いつか必ず自らの身に破滅を呼ぶ。
こりゃあこっちが手を出さずとも向こうが先に逝っちまうかな。
悲しいが乱世は誰もが生き残れるほど優しくはない。
もっともは、生きたいと思っていないようだから彼女にとっては死こそが本望なのかもしれないが。





ねえ・・・。んー、よく見とかないと危険だ」
「賈ク殿?」





 今でさえ賈クは充分を見ていると思うのだが、これ以上彼は彼女のどこを見るというのだろう。
張遼は賈クから視線を外すと、こちらの注目にも気付くことなく淡々と鍛錬をこなしているを見つめた。







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