けものの祈り     4







 歳がいくつかは知らないが、なかなか俊敏な動きをする子だ。
相手の懐深くに入り込み両手に握る筆架叉の短剣で抉る様は、見えざる死神に襲われたような気分に陥るのだろう。
互いに酔っていたとはいえ、あれの急襲をかわし返り討ちにできたこちらもなかなかの武芸者だと思う。
危ない橋を渡り続けてきた結果、どうやら死神に対抗しうる力を身につけたらしい。
のような小回りの利く者は大軍ではなく、奇襲部隊にいてこそ真の力を発揮する。
曹操たちもそれはわかっているはずだが、わかっていることを実行しなかったのは超合理主義者である曹操といえども人で、可愛い娘同然の養い子を危険な任務に就かせたくなかったからだ。
もっとも死にたがりのは、死地の最前線に真っ先に赴くかの部隊には諸手を上げて志願するだろうが。




「んー、それにしても視線が熱い」




 物心ついてからこの方女にもてたためしはないが、この年になってようやく女から熱い視線を頂戴するようになった。
焼けつくような熱の籠った目は逸らせばどこまでも追いかけられそうだし、かといって見つめ返せばすぐさま彼女の得物が飛んできそうだ。
曹操も人が悪い。
なぜよりにもよってを自らの配下とさせたのか、いくらなんでも荒療治が過ぎないかと曹操の卓越しもはや常人の理解の範疇を越えた人選に首を捻ってしまう。
のこちらに対する恨みは山よりも高く海よりも深い。
たかだか数か月行動を共にしたところで彼女が共感してくれるとは思わないし、こちらとて彼女に命を差し出す気にはならない。
は上官の指示にはきちんと従い任務をこなす模範兵として評判が高い。
尊敬する主曹操の命とあればたとえそれが理不尽で納得いかないものであっても従い、いつものように無表情で淡々と行動する。
だから今のところとの間には何の諍いも起こっていない。
身分と立場を弁えているはこちらに刃を向けてくることはないので、命の心配をすることなく彼女に接することができる。
しかしそれが賈クにはそれなりに辛く厄介なことだった。
何の不安や心配を抱くことなく生活していけるのは、本来ならばそれを与えるはずの存在が自我を押し殺しているからだ。
現に、軍に長くいる兵や将たちの間からは最近のはますます人形のようで、なおかつ顔色が悪くなったという声も聞こえてくる。
どうやら相当に無理を強いているようだ。
賈クは同僚を相手に手合わせをしていたに声をかけた。
なるほど確かには兵の鑑のような子だ。
目つきは多少悪いが、それも血に飢えた兵の特性だと思えばそう違和感は感じない。
賈クはを執務室に通すと、棚の茶器に手をかけた。






「あー、若い娘さんはこういうのより甘い菓子とかの方がいいのかな」
「お気遣いなく」
「気にしなさんな。訓練に励む部下を労わるのも上司の務めってもんだ」
「・・・上司」
「そう、俺はあんたの上司だ。おっと・・・、熱いから口焼かないように」





 部下であるは恐ろしく素直だ。
賈クは黙って茶を飲み干すの傷だらけの手を見やり、ほんとに兵なんだなと呟いた。
本当は曹操かそれに連なる縁者の養女にでもなって綺麗に着飾った華やかな娘としての人生を歩んでいただろうに、自分の存在が彼女を血なまぐさい戦場を駆ける娘へと変えてしまった。
たまげた心意気だねえ。
賈クの独り言が聞こえたのか、は椀を卓に戻すと女の兵はおかしいですかと尋ねた。





「いや、おかしかないさ。あんたは偉い、そしてすごい」
「浮ついた世辞などいりません」
「世辞ってのは言って見返りある奴にしか言わないもんだ。しかし、偉くてすごいあんたは少し無理をしてるんじゃないのかね」
「この程度の鍛錬など大したことではありません」
「いや、そうじゃなくて。・・・、あんた俺に対して相当押し殺してるもんがあるだろ。それが大丈夫かって訊いてんだ」
「賈ク様は殿より直々に参謀を託されたお方。そのような方に対していったい何を殺すというのでしょう」
「んー、あんたもしかして結構頑固者?」
「お話はそれだけですか。ならば私は鍛錬に戻ります」




 席を立ち前を辞そうとするの背中を黙って見送る。
兵卒としてのには隙がまったくない。
血が通っているのかすら疑わしくなる冷ややかな対応には、不覚にもこちらが圧倒されてしまった。
2人きりになればすぐにでもじゃじゃ馬娘に『戻る』とばかり思っていたのだが、は思った以上に自身を殺すことに慣れていた。
上司としては扱いやすいがこれでは少々面白くないし、むしろ彼女のことが心配になる。
どうにかして早急に彼女に人の心を取り戻させなければ。
ふぅむと唸り天井を見上げた賈クの元に曹操からの伝令兵がやって来たのはその時だった。
































 何のつもり、何の策略で呼び立てたのかと警戒して向かえばただの世間話だった。
賈クの下に入れと曹操に言われた時、嫌だと駄々を捏ねなかった自分は一夜のうちに大人になったと思う。
どんなに足掻いても勝てない相手だとわかった以上、力をつけるまでは相手の懐深くに入り込み弱点をつかんでおいた方がいい。
にとって今回の異動は願ったり叶ったりの僥倖と言えた。
賈クの顔を見るのは今でももちろん嫌だしともすれば唾を吐きたくなるが、仇を取るためならば多少の我慢など造作もない。
心広くはあるが決して甘やかしはしなかった曹操たちの中でずっと過ごしてきたから、わがままを言わず自我を殺すことには慣れている。
そもそももうわがままを言いたい放題言うだけの歳ではないのだ。
は宿敵にして有能な上司との面談を卒なく終え退室すると、鍛練場へと歩き始めた。
賈クの部隊は前線で華々しく武を奮う軍ではなく、後方で策を巡らし味方を援護するのを主とする。
前線へ出られないのは今までと変わりないが、これからはきちんと明確な目的を持って戦場に立ち、勝利に貢献することができる。
力や体格では当然男に劣るが、身軽であることを活かし戦場をかき回すことは得意だ。
小柄だから茂みに隠れれば見つけられることはまずないし、賈クの下につき暗躍のいろはを学べば更なる技量の向上を見込めるかもしれない。
軍に身を置き食べさせてもらっている以上は、より重要な任務を達成して曹操の覇道の実現を少しでも近づけたい。
賈クとて曹操軍の幕僚の1人だ。
まさか今更曹操に牙を剥くことはあるまい。
仮にそうする気配を見せたら、その時は、その時こそ刺し違えてでも奴を止める。
まずは腕を磨き復讐の日を大人しく待つべきだ。
筆架叉を両手に握り素振りを始めようとしたは、集合を知らせる銅鑼の音に手を止めた。
上官の性格がそうさせるのか、賈ク軍は兵たちが一斉に同じ行動を取ることはあまりない。
部下の特徴を把握した賈クが個人にそれぞれ任務を課すことはあるが、だからといって監視をすることなく個々のやる気に任せている。
だから、初めは在籍していた兵がある日を境にいなくなっていることはそれなりにある。
消えた連中はろくに訓練に励むことなくだらだらと無為に過ごしていた粗忽者たちばかりだ。
賈クは大して口を開かないし怒ることもしないが、彼なりのふるいにかけられた末残った者たちは皆目の色が違う優秀な兵ばかりになる。
選ばれし精鋭に残されたことについては特に何も思わない。
任務は内容がどんなものであれ実行するのが当然だと思っている。
むしろ、賈クがこちらを疎まず傍に置き続けていることの方が気になって仕方がない。
賈クは命狙う相手が近くにいてもどうとも思わないのだろうか。
一度は刃を向けられた相手と、仕事とはいえ一緒にいて警戒しないのだろうか。
それとも奴はこちらのことなど意に介していないのだろうか。
軍師のくせに戦えた賈クだ、そう思っていてもおかしくはない。
は整列した兵たちの前に現れた賈クの目ではなく口元を見据えた。





「戦・・・の前に、ちょっとした小細工をしろとのお達しがきた。なぁにそう難しいことじゃない。相手は劉備軍だ、すぐ終わる」





 曹操と劉備の因縁は深い。
轡を並べたこともあれば激しい火花を散らしたこともあり、最近は曹操が一方的に劉備の居場所を奪い続けている。
いつ死んでもおかしくない劉備が未だに生き永らえているのは、彼と行動を共にする猛将たちの力によるところが大きい。
苦境や危機はいつも関羽らの奮戦で切り抜けてきた劉備軍には、いつの世も策士がいない。
だから賈クは難しくはないと言い切ったのだろう。
この程度の戦いに賈クを使うあたり、曹操の劉備に対する執念を感じる。
は賈クに名を呼ばれ、はいと短く答えた。





、あんたは遊撃部隊として他の奴らの援護をしてくれ。あんたの手を煩わせるようなことはないと思うが」
「承知しました」
「わかっているだろうがあんたの今の上司はこの俺だ。くれぐれも元の上司にくっついていかないように」
「当然です」
「んー、本当にわかってるんだか」





 こいつ、人を聞かん坊の猪とでも思っているのだろうか。
このがいつ、好きでもないなんでもない憎むべき仇でしかない上司の命を違えたという。
たった一度こちらを返り討ちにしたくらいでいい気になるな。
は胸に黒い炎を灯すと、不機嫌極まりない表情で軍議から足を向けた。







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