恋人は天使か悪魔          10









 ぱしりと乾いた音が、戦闘後の静けさを取り戻した戦場に響き渡った。
何が起きたのかはわからなかった。
じんじんと痛む頬が、ともすれば遠のきそうになる彼女の意識を支えていた。
本当に、何が起こったのだろうか。
は、目の前で仁王立ちしている趙雲をぼんやりと見つめた。
合った瞳が怖くてたまらない。
あぁそうだ、私は彼に平手打ちされたのだ。
痛みの原因を思い出した途端、の耳には周囲の様々な音が飛び込んできた。





「何を、になんて事をするのですか、趙雲殿!」
「・・・なぜここにいるんだ」




 趙雲は今にも掴みかからんとする馬岱に無視を決め込むと、真っ直ぐにを見下ろした。
訊きたいことは山ほどあった。
会う前は心配の方が大きかったが、いざ会ってみると、なぜここにいるのかという怒りが湧いてきた。
戦場は遊び場でないことは彼女もわかっているだろうに、なぜ軍に紛れ込んだ。




「戦える訳でもなく、戦場に赴いても庇ってもらうことしかできぬ身であると知っていながら、なぜここに来た! 家で大人しく帰りを待つこともできないのか!!」
「・・・・・・」
「なぜ黙っている! 私の質問に答えろ、殿!!」
「・・・な、さい・・・・・・」
!!」




 ぐらりとの体が風に倒されるように地面に横たわった。
血も通わぬような蒼白な表情になっている彼女に星彩が小さく叫ぶ。
趙雲は倒れ伏したを一瞥すると、無言で背を向け歩き始めた。
彼女に何があったのかはわからない。
馬超も馬岱も、何一つとして自分に教えてくれないからだ。
しかし、戦場に赴きそこで力尽きるのは自業自得だと思いたかった。
こうなることも覚悟した上で戦場に来たのではないのか。
今は乱世、甘い考えでは生きていけぬと言ってやりたかった。





「趙雲殿!! ・・・確かには戦えぬ身でありながら戦場にいました。ですが・・・! 理由がどうであれ、私の大切な家族に手を上げることは許しません」
「馬岱殿、それほど家族が大切なのであれば、もう少ししっかりと見張られた方がよろしい。なんでもかんでも後手に回っていては、いつか悲劇を見ることになる」
「趙雲殿!!」




 いつもの冷静さをどこかへ捨て去ったらしい馬岱が鋭く叫んだ。
一度猛ると周囲が見えなくなるのは馬家の血筋か。
趙雲は、自らもまた激昂していることに気付くことなく馬岱を見据えた。
2人の間に近付けば溶け、触れれば切れてしまいそうな熱気と剣呑さが流れる。
気を失ったままのを抱えている星彩と関平は、あまりに緊迫した状況に顔を見合わせた。




「・・・拙者、馬超殿を呼んでくる」
「・・・その必要はないみたい・・・・・・」




 星彩の視線の先を見やった関平は、大股でこちらに歩み寄ってくる馬超を捉えた。
近付くにつれて馬超の表情が険しいものであることがわかってくる。
馬超はの頭をそっと撫でると、すまんと一言呟いた。
ついで、対峙し続けている趙雲と馬岱の間に割って入る。




「・・・従兄上」
「どういうことか訊き、おおよそはわかった。いずれにせよ、一度とも話し合わねばならん」





 そこまで言うと、馬超は趙雲を顧みた。
自分が諸葛亮と話している間に何があったのかはわからない。
しかし、何かが起こったから従弟と趙雲の仲が険悪になり、関平たちが戸惑っているのだろう。




「色々と迷惑や心配をかけてすまなかった。・・・話がある、帰還後に俺の軍の鍛錬場まで来てもらえるか」
「・・・わかった」





 馬超は趙雲の真っ直ぐな返答を受け微かに笑うと、星彩の手からを抱き取った。
この状態では衛生兵の中にも戻れまい。
大した怪我はしていないようだが、念のために医師に診せておいた方が良さそうだ。
が死ぬ気で庇っていたあの男は正真正銘の医師のようだし、卒倒していただけだったから彼に視てもらおう。
馬超は馬岱を呼び寄せぐったりとしているを愛馬に乗せると、馬に鞭をくれ成都へと駆けさせ始めた。





































 が次に目覚めたのは、馬家の屋敷だった。
どこか痛いところはありませんかと侍女に泣きつかれ、現状を把握できないままに大丈夫と答える。
戦闘で加えられた傷は痛くない。
趙雲に思い切りぶたれた頬だけが、未だに熱を持ちじんわりと痛みを教えていたが。





「・・・兄上たちは?」
「戦後処置のためお出かけになっております。お嬢様が目覚められたとなれば、大層お喜びになられることでしょう」
「いろんな人に迷惑かけちゃったな・・・」





 は仰々しく腕に巻かれた包帯を見てぼそりと呟いた。
これではまるで重傷患者だ。人々に与える誤解も大きかろう。
第一こんな体裁では、外もろくに出歩けない。
外と思い、はぞっとした。
外に出れば、また諸葛亮に会ってしまうかもしれない。
なぜ持ち場を離れたのかと咎められたら弁明のしようもない。
それに、もしも趙雲に会ってしまったらどうしよう。
どんな顔をすればいいのだろうか。
次こそ完全に愛想を尽かされて嫌われたに違いない。
戦場でも鬼のような形相で怒り詰られたのだ。
今更会わせる顔などあるはずがなかった。





「大事をとってしばらくはゆっくりと屋敷で養生するようにと、馬超様が仰せでした」
「うん、そうする・・・」




 会えない、会うのが怖い、会いたくない。
は、今回ばかりは兄のさりげない気遣いと優しさに甘えることにした。








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