恋人は天使か悪魔          7









 無理やり諸葛亮に衛生兵養成所に連れて来られてから、は一度もやる気を見せたことはなかった。
持っている技術と求められる知識があまりにもかけ離れていたから、諦念もあった。
私みたいな小娘が戦場で何の役に立つというのだ。
行軍していてもそう思い続けていただったが、実際に戦闘が始まると愚痴を零してもいられなくなった。
曹操軍も精強なのだろう。
奪取した拠点にこしらえた簡易医療所は、たちまちのうちに傷ついた兵士で溢れかえった。
前線だからなのだろうが、こうも負傷者が多いと自然と先鋒を任されている趙雲が心配になってくる。
趙雲が兄よりも冷静で、兄と同じくらい強いということは知っている。
以前曹操軍の兵に襲われた時に彼の武勇は間近で見たから、その強さに嘘はない。
だが、今回は大規模な戦闘なのだ。
余所見をしてはいけないしそうする余裕がないことも承知の上だが、否応にも剣戟が交わる音は耳に飛び込んでくる。
趙雲に救われる前の、白馬が大嫌いな頃の自分ならとっくに卒倒していたはずだ。
それほどまでに激戦が繰り広げられていた。
流れ矢だって飛んでくるのだから、周囲の注意も怠れない。






(・・・もしも、趙雲殿がここに運ばれてきたら・・・)






 考えたくもない恐ろしい想像をしてしまう自分が嫌になる。
傷つき今にも倒れそうな趙雲が現れたら、職業も恥も外聞も置き去りにしてしまう気がする。
悲鳴を上げるか、それとも冷静に治療を始めるか。
趙雲を見た後の行動を予想することはできなかった。
今まで怪我をしてきた兄や従兄と同じように接するのだろうか。
きっと違うと、は大した確証もなく思った。





(ていうか、そもそもここにいることバレたら絶対に叱られる。色々面倒だから来ないで、趙雲殿も兄上も岱兄上も)





 兄の心妹知らず。
出陣前夜まで可愛い可愛い妹の行方を案じていた馬超の心中を、はとんと理解していなかった。








































 趙雲は曹操軍の猛攻に耐えていた。
いくらこちらが精強だろうと、向こうも質が良く、かつ大軍なのだから押されがちになる。
押されては押し返し、押しては押し戻されの繰り返しに兵にも疲れの色が見えてきた。
重傷を負った兵もいるし、すでに還らぬ人となった兵もいる。
それでも、ここは何としてでも押し返して進軍しなければ。
趙雲は自身のやるべきことを正確に理解していた。
ここが抜かれれば、馬超が布陣している関所までは一直線だった。
さらに関所を突破されれば劉備軍本陣に到達してしまう。
馬超の元まで兵を侵入されては、明らかにこちらの分が悪くなるのだ。
馬超個人の武勇と彼の下につくの兵たちの強さには趙雲も期待し、安心していた。
しかし、いや、だからこそ彼らの武勇は曹操軍を撃破することに全力を注いでほしかった。
叶うならば、共に戦功を競い合いながら進軍し、曹操の首級を上げるのだ。
曹操を倒せば馬一族にとっては仇を討ったことになり、も嬉しがるだろう。
愛しい恋人の名を思い出し趙雲は口をきつく結んだ。
今更になって、最後に彼女が零していた「嫌な予感がする」という言葉が気になっていた。
彼女に予知能力があるとは思えないが、実際に会えなくなってからその言葉が妙な現実味を帯びてきていた。
帰還を果たしたら早々に彼女の行方を掴んで問い質さなければならない。
そのためには、この戦争を良好な健康状態で勝利し、終わらせなければならなかった。
怪我をしたとなれば泣き出してしまうかもしれない。
いや、烈火のごとく怒るだろうか。
何にしても、無事な姿を見せれば安心してくれるだろう。
彼女のためにもこの戦、絶対に勝ってやる。
趙雲個人のやる気が俄然上昇した。





































 どこかでずん、と大地が叩かれる音がした。
あの音は馬蹄ではない。
もっと重く、生きている者の発する音ではなかった。
は董医師とともに救護活動にあたりながらも、近くも遠くもない場所で発生した音に耳を澄ませていた。






「董先生、敵軍が増えてきてます」
「新手の部隊か?」
「わかりません。でも、こういう時に限って物資不足です」






 大量に持ち込んでいたはずの物資も、底を尽き始めていた。
定期的に運ばれてきていたのだが、途中で襲われて運ぶ者がいなくなってしまったのだろう。
助けるための道具がなくなっても人は運ばれてくる。
はひらりと飛んできて地面に突き刺さった火矢に水をかけると、傷口に薬を塗りたくる手を休めることなく董医師を顧みた。





「輸送隊が襲われてるから来ないんですよ、きっと。彼らが来ないってことは、ここもそろそろ危ないです」
「そなた、わかるのか」
「戦ったことはないですけど戦場を往来したことはあるんで少しなら。・・・・・・嫌な音がします、大量の馬が走る音」






 ぐったりと目を閉じての手当てに身を任せていた兵がばちりを目を開けた。
を見つめる目がぎょっと見開かれている。





「ひ、・・・姫様!?」
「・・・ちょっと、誰かと勘違いしてる? それとも夢見心地?」
「ち、違います! お嬢様、なぜこんな所に!?






 姫やらお嬢様やら呼ばれ始めた部下を、董医師は奇異な目で見つめた。
劉備に娘はいない。姫と呼ばれるに値する女性はこの国にはいないはずなのだが。
董医師は、そういえば自分がの素性について何も知らないことを思い出した。
諸葛亮がある日いきなり置いて行った不思議な娘。
彼女の口ぶりからして妙な修羅場を潜り抜けてきたようだったが、それが何のことを指しているのかはわからなかった。





「げ・・・、もしかして・・・、ええっと・・・・・・、馬超将軍の?」
「なんでそんな他人行儀な呼び方なさるんですか! 俺、今は他の将軍の下で働いてますけど涼州から一緒に逃げてました!」
「あ、動いちゃ駄目!」






 はがばりと起き上がり槍を手にした兵を慌てて押し留めた。
思ったよりも元気そうで安心したが、この外は非常に油断ならない状況だ。
迂闊に飛び出すと、ここに戻ってくる前に死んでしまう。
はかつての同志に、彼が気絶している間の出来事を話して聞かせた。





「ここももう危ないと思うのよ。聞こえるでしょ、騎馬隊の音」
「・・・すごい数ですね、しかも相当の速度」
「でしょ?」
「『でしょ?』じゃありません姫様! 僭越ながら護衛させていただきます、安全な所までお退き下さい」
「・・・、そなたは一体・・・・・・」






 何者なのだ、と言いかけた董医師はぴしりと固まった。
耳元すれすれを通り過ぎていく矢に驚いたのだ。
これは流れ矢じゃないわねそうですねと顔色を変えずに語らっている若者たちが恐ろしい。
何なんだ、この肝の据わり方。






「大丈夫ですか、董先生」
「うむ。・・・して、そなたは何者だ」
「その話は後でいいですか先生。ごめんね、私ここで衛生兵として働かされてるから勝手に持ち場離れちゃいけないのよ」
「ですが・・・!!」
「あのね、昔は私たちと一緒だったけど今は他の将軍の下にいるんでしょ? だったら私なんかよりも上司守らなくちゃ」






 なおも言い募ろうとする兵を手で制すと、は他の負傷兵の治療に取りかかった。
ここからのこのこと逃げ出すわけにはいかない。
旧馬超軍の彼は元気だったが、他の者全てがそうとは限らないのだ。
見捨てることなどできなかった。







「ほら、あそこにいい馬乗ってる敵がいるわよ。あなたも涼州者なら得意でしょ? あれ奪って将軍とこ帰りなさい」
「姫様・・・!!」





 の進言どおり、馬上の敵兵を突き落とし馬を奪った兵が猛然と外に飛び出した。
あの手綱捌きなら多少の修羅場も潜り抜けられるだろう。
それでこそ涼州の若武者だ。
兵がいなくなった数分後、が控える拠点は敵味方入り乱れての激戦地となった。








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