公主様の秘め事     2







 はぐれてしまった供の者たちが自分を探している。
まだ見つかりたくないと思ったは、ぱっと奥に身を隠した。




「手のかかるお嬢様を持って大変なこった」
「せめて、天気が良くなってから帰りたいのです」
「じゃあそれまで付き合ってやるよ、





 そう呼ばれてたよなと尋ねられこくりと頷く。
名を呼ばれて少しくすぐったいような感じもするが、あんた呼ばわりされるよりも嬉しいに決まっている。
それに、身内以外から呼び捨てで名を呼ばれることなど初めてだったかもしれない。
供が去ってからもしばらく雨は降り続き、ようやく上がったころには既に辺りは夕日で赤く染まっていた。





「あなたのお名前も伺ってよろしいですか?」
「俺? 公績、よろしくな」
「公績様、ですね。またお会いできると嬉しゅうございます」
「家抜け出してこれたらここに来なよ。俺もここでを待ってるよ」





 は廃屋から出ると、公績に向かって笑みを向けた。
その瞬間彼の表情がぴしりと固まったが、気にしないことにする。




「必ず参ります。その日まで、どうぞ許昌をお楽しみ下さいませ」
「あ、ああ」





 別れ際にとびきりの笑顔を見せた美少女を、公績はずっと見送っていた。




























 と別れた後、公績と名乗った青年はひっそりと許昌を後にした。
闇に紛れて城外へと出て、そこからさらに離れた野営地へと馬を飛ばす。
彼を待ち受けていたのは、すらりとした白皙の美男だった。





「首尾はどうだった、凌統。上手く忍び込めたか?」
「まぁこれからってとこです、周瑜様」





 彼の姓名は凌統といい、に告げた公績というのは字だった。
名を出して万一のことがあってはならぬと字で通していた。




「どの門も堅固な造りになっています、攻城兵器が必要になるでしょうねぇ。それから、宮殿に押し入るためには市街地を通らなければなりません」
「帝の保護が第一ではあるが、庶民に危害を加えるのは避けたいところだ」
「許昌はとにかく堅いです、充分に準備をしなくちゃ入れさせてもらえないでしょう」





 旅人のふりをして調べた情報を一通り伝えると、凌統は腕を頭の後ろへやりくつろいだ状態になった。
疲れているであろう彼に、周瑜はねぎらいの言葉をかけた。




「やはり密偵の真似事は難しいようだな」
「ほんと、これっきりにしてほしいですよ。緊張の連続ですし」
「ほう。しかしその割には顔が笑っているようにも見えるが?」





 昼の出来事を思い出しているうちに顔がにやけていたのだろうか。
凌統は慌てて頬を引き締めた。
のことを告げるべきではなかった。
彼女は本当にただの許昌に住むお嬢様だ。
戦の泥沼に引きずり込みたくはない。
それにあんな可愛らしい容姿をしているのだから、他の連中に話して興味を持たれても困る。
字で呼ばれるのは自分だけで充分である、もったいない。





「笑ってるだなんて、そりゃ周瑜様の見間違いですって」
「そうか。私個人としては、凌統が我ら孫策軍の武将だということが知られなければ、何をしていても構わないと思っている」
「ありがたいことです」
「なに、息抜きも必要だろう」





 物わかりのいい上司に大いに感謝した凌統だった。





























 宮殿へと戻る途中供に見つけられたは、丁重に館へと送られていた。
困ったような笑みを浮かべている荀彧を見ていると罪悪感が芽生えてくる。





「勝手に市街へ降りて申し訳ございませんでした、荀彧殿」
「おっしゃって下されば否とは申しませぬ。お一人でお出かけになるというのは承知致しかねますが」





 父上のご不安もお察し下さいと言われれば、さすがに無理は言えなくなる。
は父にあまり迷惑や心配をかけたくなかった。
父が戦に出ている間に羽を伸ばそうなど考えられない。




「毎日は出かけません。ですから、せめて市街は1人で・・・」
「・・・ではこう致しましょう。市場の四方あるいは八方を広く護衛が囲みます。公主はその範囲の中ではご自由になさって下さい」
「つまり、わたくしの周りには実質上誰もいないということですか?」




 思いかけない良策には顔を綻ばせた。
これで心置きなく外へ出ることができる。
私も供に参ろうと言って付いて来る異母兄も今は父と一緒に官渡の地だ。
しかし、とはふと眉を潜めた。
どうして今頃に外出を許可してくれるようになったのだろうか。
守備の兵が少ない今こそ、大人しくするように言い渡されるのではないのか。
は荀彧に問い質そうと彼を見上げた。




「なにゆえに父上や荀彧殿はお許し下さったのでしょうか。理由をお聞かせ願えますか?」
「今はこの許昌も安全です。治安も良いので公主がお出になってもそれほど問題はありますまい」
「他意はございませぬか?」
「公主は外へ出るのがお嫌でございますか?」




 違います、と答えるとは俯いた。
聡明な公主を前に荀彧は寂しげな表情をした。
ないと言えば嘘になる。公主も年頃である。
姫君という生まれのため、名のある武将や文官の子息に嫁ぐということもありうるようになった。
殊に官渡という大決戦の後は、その可能性が大きくなる。
他家へ嫁ぐ身となれば好き勝手もできなくなってしまう。
だから今のうちに好きなことをさせてやりたい。
曹操が外出を容認する所以はそこにあるのだろうが、それは言うまいと思っていた。
言って衝撃を受け悲しむのはだからだ。





「安全のためにも、外ではご身分を隠されますように」
「わかっております。城のことも父のことも、何一つ申しません」




 外へ出れれば理由など要らない。
はそう結論付けると、荀彧の元から去った。







分岐に戻る