公主様の秘め事     7







 公績から思いがけない誘いを受けたは、宮殿に帰ってから独り部屋に閉じ篭っていた。
誰とも話す気分ではなかった。
心の迷いを気付かれたくなかった。
普通の頭で考えたら、さしたる時も要さずに否と答えるような申し出である。
しかしは混乱し、そして大いに戸惑っていた。
公績が、家族を捨ててでも付き添いたいと思える相手だったからだ。
胸に抱き寄せられた時に聞かされた言葉に嘘偽りはないように感じられた。
かつて、あれほどまでに心動かされた言葉を言われたことがあっただろうか。
は公績から贈られた髪紐を手に取った。
ずっと懐に入れられていたせいか、ほんのりと彼の匂いがした。
その香りがまた、の心を甘く締め付けた。
彼の全てを愛しいと思っていた。
公主としての立場も何もかも置き捨てて、共に歩んでいきたかった。






「・・・でも」





 右も左もわからない土地に行くことになったら。
彼に愛されているうちは楽園だろう。
しかし、愛ほど変わりやすいものもないという。
故郷にも帰れず取り残された時、は己の行く末を想像できなかった。
彼のことをよく知らないからこその不安なのかもしれない。
いや、知っていたとしても同じように不安になるだろうとは思い直した。
果たして、不安を乗り越えてまで彼と同じ道を歩みたいのかと再び自問する。
北と南とでは文化や習慣も異なってくるだろう。
南方の異民族も馬にこそ乗らないが、かなり凶暴だと聞く。
かの地を統べる孫策という男も今後どうなるかわからず、その実力も未知数だ。
父や荀彧はいくらか気にしているようだが、乱世は何が起こるかわからない。
つまり南へ行くということは、自ら進んで戦地に赴くことになるのだ。
宮殿の奥深くでぬくぬくと育てられてきた姫君が、生きていけるような世界ではないのだ。
は、公績の足手まといにはなりたくなかった。
住む土地に慣れようと努力もするし、逞しく生きていこうと決めていた。
南下を思い悩む要因も数多くあるが、新天地へ向かう覚悟も充分にしていた。
後は、揺らぎない決心をするだけなのだ。





「わたくしとて曹家の娘・・・。・・・逆境を生き抜く覚悟はあります」





 は夜空に浮かぶ月を見上げ呟いた。
決めてみれば心が軽くなった。
後は明後日、いつもの場所に向かえばいいだけのこと。
そこに行けば、ほっとしたような笑顔で出迎えてくれるであろう愛しい人がいるのだ。
それから先は、乱世に揉まれながら生きればよい。
彼と一緒ならば、どんな困難だって克服することができるはず。
よく考えてみれば、不安よりも未来への楽しみの方が多いではないか。
己の選択に誤りはないと、は心に深く言い聞かせた。


























 翌日、はいつもと何ら変わりなく1日を始めた。
心はすっかり明日の昼に飛んでいたが、そのような素振りはちらとも見せずに過ごしていた。
市街にも降りずに黙々と公主としてあるべき生活を送るに、侍女たちもほっとした表情を浮かべていた。
彼女たちは正直なところ、にはあまり市街へ行ってほしくないと思っていた。
いくら曹操が許したとはいっても、大事な公主の身に何か起こった時に叱責を受けるのは自分たちである。
そのため、大人しく侍女たちと言葉を交わし詩文を嗜み、たまに護身術を教わるといった彼女の行動に安心していた。
侍女たちの思いには、もまた気付いてはいた。
これから、彼女たちにはとんでもない迷惑をかけることになるだろう。
普通に市街へと繰り出した公主が、二度と帰って来ないのだ。
多くの者は事件に巻き込まれ攫われたと思い込むだろう。
自ら望んで出奔したなどとは思いもしないはずだ。
は生涯最大の悪戯をする気分になった。
悪戯だと思えば、国を裏切るという罪悪感も少しは小さくなる気がした。
もちろんそれは気持ちの上での問題に過ぎないのだが。





や、少しよろしいですか」
「はい、義母上」




 父の正室でありにとっては義母にあたる卞夫人が声をかけた。
を産んだ母は、彼女が幼い頃に亡くなっている。
以後は曹操に最も愛されている卞夫人の元で育てられていた。
そのためにとって卞夫人とは、ほとんど育ての母のような存在だった。




「市街で楽しんでいますか」
「はい。宮殿では味わうことの叶わぬものに触れてまいりました」
「そうですか。・・・今日は出かけないのですか?」



 そのつもりですと答えると、卞夫人はほっとしたような笑みを浮かべた。
やはり義母は義母なりに案じていたのだろう。
いくら育ての母とはいえ実の娘ではない分、余計に気を遣ってくれているのかもしれない。




「昨日、こちらに戻ったきり姿を見せなかったでしょう? もしや向こうで何かあったのでは、と・・・」
「ご心配おかけして申し訳ございません。義母上が心配なさるようなことは何もございません」
・・・、私はあなたを実の娘のように思っています。悩み苦しむことがあるのならば、何でも話してくれていいのですよ」




 義母の申し出にはゆったりと微笑んだ。
確かに彼女はよくできた人で尊敬している。
良妻賢母とは、まさしく彼女のためにある言葉だろう。
しかし、今度のことばかりは何人にも言うことができないのだ。
言うつもりだって寸分とてない。
何の兆候も見せずに去りたかった。




「殿がお帰りになれば、ここもまた賑やかになるでしょうね」
「戦は好転したと表の者たちも言っておりました。父上や異母兄のお帰りもまもなくでございましょう」
「そうですね、その時には笑顔でお出迎えしましょう」
「はい」




 父が帰ってくるのはいつだろうかとはふと思った。
明日帰ってくるということはないだろうが、自分が消えたと知ったらどう思うだろうか。
あの父のことだから、取り乱したりはしないはずだ。
公主は自分の他にもまだまだたくさんいるし、案外そうかの一言で済ませるかもしれない。
それはそれで寂しいことだとは心中悲しく思うのだった。




























 凌統は武器の確認をしていた。
明日は早いのだから早く寝ろと言われても、頭が冴え渡っていた。
明日、彼女は現れてくれるだろうか。
一応騒々しくなるからと忠告はしておいた。
しかし実際は、騒々しいところではないはずだ。
あちこちで剣戟が振るわれているだろう。
そんな物騒なところに、彼女のような深窓の令嬢がそもそも出てこれるのか。
考えれば考えるほどに不安が大きくなっていった。





「凌統、彼女にはきちんと伝えたのか?」




 どうしても眠れずに宿舎の外で素振りを始めた凌統の元に、周瑜が近づいてきた。




「伝えましたよ。明日来るかどうかはわかんないですが」
「彼女のことを想うのもいいが、明日の我らの目的は帝の保護だ。それを忘れるな」
「わかってますって。わかってるからこそ、明日俺は彼女を迎えに行かないんです。あの子には、俺の名を告げればいいって言ってますし」




 言いはしたものの、果たしては見ず知らずの兵士に自身の名を告げることができるだろうかと、凌統はまた不安に思った。
いくら危害を加えないとはいえ、兵士とは武装している人間である。
いくらしっかりしていてもも年頃の娘だ。
怯えて何も言い出せないかもしれない。




「周瑜様、俺・・・・」
「凌統。・・・もう少し彼女のことを信じたらどうだ。私もあの娘に会ったが、彼女は愚かではない。君と共に行きたいと決めているならば、何をしてでも連絡を取るだろう」
「そう、ですよね・・・」




 周瑜に諭されると、心がだいぶ落ち着いてきた。
凌統は周瑜に一礼すると、明日に備え眠りにつくことにした。



























 何やら嫌な予感がする。
ぱちりと目を開けたは、周囲のざわめきや空気などから不吉な気配を感じ取った。
今日は新たな門出の日だというのに、どうしたことだろうか。
身支度を整え部屋の外に出ると、慌てふためいている侍女を呼び止めた。




「朝から何の騒ぎですか、騒々しい・・・」
「そ、それが公主・・・! あの、その・・・っ!」
「・・・落ち着きなさい、ゆっくりとお話なさい」
「は、はい・・・! そ、孫策軍が攻めてまいりました!」
「孫策軍が・・・?」




 の頭の中が真っ白になった。







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