公主様の秘め事     8







 孫策軍襲来の報を聞いたは、近くの窓から外を見下ろした。
危のうございますと叫ぶ侍女を無視して市街を見渡す。
今のところ兵の姿は見られないが、おそらく城門の向こう側には孫策軍が大挙して押し寄せているのだろう。
主力のほとんどが官渡にいるという状況の中、許昌がどれだけ耐えられるのかにはわからなかった。




「こ、公主・・・っ、私たちどうなるのでしょうか・・・?」
「戦う前からそのように怖気づくとは何事ですか。おそらく今、荀彧殿や武将の方々が策を講じているはずです。まもなくわたくしたちにも何らかの情報がもたらされましょう」
「そ、孫策軍は遥か南方よりの軍勢とか。私たちに危害が及ぶということは・・・!?」




 自分で言って想像して恐ろしくなったのか、侍女は両手で顔を覆った。
にしても、そのようなことを尋ねられても答えられるはずがない。
今にも泣き出しそうな侍女を見て、は小さく息を吐いた。



「・・・仮に孫策軍があなたの想像するような行為に及ぶとしても、あくまでその対象はわたくしや義母上でしょう。
 身を挺してまで守れと命ずるつもりはないので、あなたが怯えることはありません」
「そ、そうですか・・・っ、良かった・・・!」




 この女性は自分が何を言っているのかわかっているのだろうかとは思った。
仕えている人物から見放されたということに、まだ気付いていないだろう。
本来ならば何よりも第一に守るべき公主よりも、己の安全を図ったのだ。
確かには言葉通り、自らを庇えと命令するつもりはなかった。
しかしその可能性がないとしても、覚悟すらしない者を傍に置きたくなかった。
自己の保身ばかりを案ずるような者を手元に置いて、迷惑を被るのはこちらである。




「失礼致します。・・・公主、荀彧様がお呼びでございます」



 年配の女官が近づいてきてに告げた。
は目で頷くと近々解雇されるであろう侍女を見やり、そして女官にだけ聞こえるように囁いた。




「この者は孫策軍に暴虐の限りを尽くされるのではないかと案じているようです。・・・わたくしや義母上のことは気にせずにどこへなりと行きなさいと伝えてもらえますか」
「職を逐うということでよろしいのでしょうか」
「そう受け取って下さい」




 はそのまま侍女を顧みることなく歩き出した。
あの顔を見ることは二度とないと確信していた。




「お呼びでしょうか、荀彧殿」
「お呼びたてして申し訳ございません公主。・・・既に孫策軍のことはお聞き及びでしょうか」
「ええ。・・・驚きました、あまりに唐突なことゆえ」




 殿へ援軍を要請しましたと荀彧は話し始めた。
向こうも決して大軍ではないが、侮れる軍勢でもないという。
城門の破壊活動も順調に進んでいるようだし、宮城内へ進入されるのも時間の問題だった。




「孫策の狙いは帝でございましょう。そして全軍の指揮を預かっている私かと」
「わたくしたちはいかようにすればよろしいでしょうか。・・・怯えきっている者もいますが」
「公主らを捕らえられたとなれば全軍の士気に関わります。何としてでもお守りいたします」
「そうしていただけると助かります。己の身を守るとはいえど女ばかりでは限度がありますゆえ」




 は外を眺めた。
武将に率いられた兵たちが忙しなく動いている。
戦が始まっているのだと嫌でも思い知らされた。
これではとても市街へなど降りられない。
今はまだ静かなあの場所も、時と共に血生臭い戦場と化してしまうのだ。
市街、と思いははっとした。
孫策軍襲来の報で頭からすっかり抜け落ちていた。
今日の昼過ぎに公績に会いに行かなければならないのだ。
しかしどうやってあそこまで行くというのだろう。
そもそも公績は無事なのだろうか。
戦いに巻き込まれていたらどうしよう。
ないとは思うが、兵に間違われてどちらかの軍に斬られてしまったら・・・。
急に顔色を失くしたに、荀彧は訝しげな表情を浮かべた。
公主とそっと名を呼ぶと、びくりと肩を震わせた。




「いかがなされましたか。どこかお加減が優れぬのでは・・・」
「いいえ何でもありません・・・。少し、考え事をしていただけです」
「左様でございますか。・・・万一の場合はあの通路を使うことになりましょう。兵の手配もしております」
「わかりました。義母上にも伝えておきます」




 は荀彧と別れると自室に再び引き篭もった。
もう変えないと誓ったはずの決心が揺らぎ始めたのがわかっていた。
一緒に来てくれという公績の言葉と、孫策軍襲来という現実が頭の中で交錯する。
今でも彼と共に行きたいと思っている。
待ち合わせの廃屋にだって、例の通路を使えばすぐに行くことができるのだ。
しかし、曹操軍を見捨てたくなかった。
荀彧も言っていたではないか。
公主がいなくなるということは即ち、自軍の士気の低下に繋がると。
顔さえ見たことがない存在の命が危うくなることで、父の本拠地が奪われてしまうかもしれないのだ。
自分のために命を賭けて戦ってくれている人々のことを思うと、とても出奔なんてできなかった。
孫策軍に付け入る隙を与えたり、ましてや許昌を奪われたくはなかった。
・・・どちらも実行するということはできない。
家族や国を裏切るのみならず命の危険に晒してまで手に入れた愛では、幸せになどなれない。
一生罪悪感を背負って生きていくことになる。
はゆっくりと目を閉じた。
涙が溢れてくるのがわかった。
文台の上に置いていた髪紐をぎゅっと握り締め、頬に当てる。
後悔してはいけないと、あの夜以上に強く強く心に言い聞かせた。
嫌だと叫び、張り裂けそうになる胸を必死に押さえつけた。
本当に、本当にあなたを愛しているのですと旅立つ公績に告げたかった。
しかしその言葉を発したとしても、その時には相手はもういないのだ。




「ごめん、なさい・・・っ、公績さ、ま・・・・・・!!」



 はそれだけ絞り出すと、部屋の隅に置かれていた武器を静かに手に取った。






























 堅固な城門が大きな音を立てて穴を開けた。
孫策の掛け声と共に、一斉に赤い軍隊が城内へと突入する。
さすがは曹操の本拠地だった。
市街へようやく入れたかと思えば、その先にはさらに分厚い門が行く手を阻んでいたのだ。
しかし先行していた別働隊の活躍もあり、第二の関門はさほどの時を要さずに突破することができた。
今や許昌はあらゆる所が戦場と化していた。
賑やかな市場には両軍の死体が転がっているし、戦に怯えた民は家に引き篭もったきりである。
それでも、凌統は曹操軍の攻撃をいなしながらを探していた。
剣と剣がぶつかり悲鳴や怒号が飛び交う中、彼女の名を叫び続けた。
時間よりも早く外に出てしまったがために、戦いに巻き込まれてしまったのではないか。
こちらがやたらと発射していた投石の下敷きになってしまったのではないか。
両軍の流れ矢に当たってしまったのではないか。
まさか、の美貌に我を失った兵が乱暴を働いているのではないか。
凌統の脳内を様々な悪い予感が通り過ぎた。
どうしてあの時、戦の当日に来いと言ってしまったのだろうか。
前日だって良かったはずだし、むしろそちらの方が彼女を危険な目に遭わせなかった。




「どこにいんだよ、・・・」




 を探し続けていた凌統だったが、宮城に入った途端に激しさを増した曹操軍を相手にすると、彼女のことを頭の隅に追いやった。
曹操軍も必死なのだろう。
許昌を奪われてしまっては、いくら曹操が官渡で勝利を収めたとしても帰るべき場所がなくなってしまう。
その上帝まで奪われてしまったとなれば、彼はあっという間に天下の逆賊と化してしまう。



「よっしゃあ! このまま本陣に突入だ!!」



 死に物狂いで刃向かってきていた曹操軍を蹴散らし拠点を制した孫策が、剣で本陣を指した。
真っ先に飛び出した司令官の後を追うように兵たちも動き出す。
を探すのは、この戦いが終わってからでも間に合うはずだ。
凌統も彼らに続こうと拠点を去ろうとした。
去ろうとしたのだがその直後、頭上から大量の火矢が降ってきた。
彼らのどこにそれほどの兵力が残っていたのだろうかというほどに勢いのある攻撃だった。
上の方がいきなり騒がしくなる。
曹操様の御為に、公主の御為にと兵たちの叫び声が聞こえる。
一体何が起こったんだと凌統は顔を上げた。
火矢は止んだが、代わりに多くの敵兵が降ってくる。
ひらり、と凌統の目の端を紅い何かが掠めた。






「・・・許昌は誰にも渡しません」




 剣戟が交じり合うざわめきの中でも、凌統はその声がはっきりと聞こえた。
いや、彼女の声しか聞こえなかった。
顔を向けたくなかった。
嘘だと、夢であってほしいと願った。





「・・・探したっての、・・・・・・





 凌統は返り血を存分に浴びた顔をに向けた。
、いや、公主の顔が強張った。







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