女狐の艶笑     3







 趙雲は突然目の前に現れ、なおかつ抱きついてきた女に戸惑っていた。
彼女はいったい誰だろうか。
ではないし、だからといって彼女以外に懇意にしている女はいない。
誰だ誰だ誰だ。
正体不明の女を引き剥がすと、趙雲は改めて女を見つめた。
びっくりするほどの美人だが、こんな美人と親しくなった覚えはやはりない。
人違いかからかいかのどちらかだろう。
趙雲はそう結論づけると先を急ぐことにした。
こんな往来で、誰が見ているかもわからない。
もしかしたらあそこの建物の影にか馬超か馬岱がいるかもしれないのだし。
例として挙げた建物の影にはまさしくと楊丹がいたのだが、もちろん趙雲は気付いていなかった。




「やだ子龍、私のこと忘れちゃったの」
「・・・・・・」
「私よ私。ほら、昔よく一緒に遊んでた珠蓉よ!」
「・・・珠蓉? あの泣き虫なくせに無茶ばかりしていた?」
「そう! 久し振り子龍、子龍に逢いたくて来ちゃった!」




 思い出してもらったのがよほど嬉しかったのか、満面の笑みを浮かべた珠蓉がもう一度飛びついてくる。
趙雲は珠蓉の体をするりとかわすと、懐かしそうに目を細めた。
まさかこんな所で旧知の友に会えるとは思いもしなかった。
女の一人旅でここまでの道のりはさぞや辛かっただろう。
昔はもっと弱々しくてちょっと突けばすぐに泣くような娘だったのに、今目の前にいる彼女からはそういった儚げな雰囲気は微塵も感じられない。
良くも悪くも乱世のおかげで多少図太くなったのだろう。
といい珠蓉といい星彩といい、本当に女性は逞しい。




「まさか子龍がこんなに出世してるとは思わなかったなー。ね、昔の約束覚えてる?」
「約束?」
「私を守れるくらいに強くなったら妻にしてくれるって言ってたじゃない。私、子龍の妻になっちゃおっかなー」
「昔の子どもの戯言だろう。成都はいい街だ、ゆっくりとしてくれ。私は用があるので先を行く」




 子どもの頃の約束を今更持ち出すなどくだらない。
第一、自分には既に心に決めた人がいるのだ。
まだその人には祝言のしの字も言えていないが、彼女以外などとても考えられない。
まったく、大人をからかうのもいい加減にしてほしいものだ。
置いていかれた珠蓉は、先程まで浮かべていた笑顔をすっと引っ込めると眼光鋭く趙雲の背中を見つめた。




「ほんと、いい男になったわね、子龍・・・」



 揺さぶりがいがあるいい男。
珠蓉は婉然と微笑むと、人混みの中へ消えていった。



























 は建物の影から趙雲と珠蓉の逢瀬もどきを観察し、不安と闘争心でいっぱいになっていた。
この後趙雲と逢う予定だが、その時彼はあの女のことを隠さず話してくれるだろうか。
隠しているようならばそれは由々しき問題だ。
人に、特に恋人には言えないようなやましい関係性を持っているのかもしれない。
趙雲が女に現を抜かすような男ではないとわかっているからこそ、突然姿を現し、なおかつ彼を字で呼んだ謎の美女が気になった。
あれは酒場や妓楼の女ではなく、ただの普通の一般人なのだ。




「お嬢様、俺はとりあえずあの女の後を追ってみます」
「よろしくね楊丹。まさかないだろうとは思うけど、危なそうだったら撤退よ」
「・・・俺、一応兵士としてこの国に仕えてるんですが・・・」




 は楊丹を見送ると、とりあえず一度出直すことにした。
さすがに今出て行くのはまずい。
ここはひとつ、今の出来事は何も知らないふりをしておくべきだった。
別に趙雲を信頼していないわけではないのだが、結果的に彼を試すようなことをやっている自分が悲しかった。
こんなことをしていると兄や従兄に知れてみろ。
やっぱりあいつは駄目だなどと言われてしまう。
趙雲を少し待たせてしまうが、それも仕方がないということにしてわざとゆっくり彼の元へ行く。
遅れてすみませんと言うと、趙雲はいつものように気にするなと笑って出迎えた。




「岱兄上、ここぞとばかりに私を扱き使ってくれちゃって・・・」
「そういう時もあるだろう。もう良かったのか?」
「はい。後は押しつけてきたのでもう大丈夫です」




 間違ったことは言っていない。
女の素性を洗い出す作業は押しつけた。
扱き使われているのも当たっている。
は趙雲を注意深く観察した。
言うのか言わないのか早くはっきりしてほしい。
他愛ない話を続けるが、趙雲の口から例の女の話はちっとも出てこない。
言うほどのことでない、本当にただの性質の悪い絡みだったのか。
それとも言いにくいやんごとなき理由があるのだろうか。
じりじりうずうずしているとそれが趙雲にも伝わったのか、どうしたと尋ねられる。




「何かあったのか? 今日は落ち着きがないように見えるが」
「そうですか? 普通と思うんですけど・・・。子龍殿こそ、今日は他には何もなかったんですか?」
「今日か・・・。そうだな、大したことはなかったな」




 しらを切りやがったこの男!
あんなに大胆に抱きつかれていたにもかかわらず、何もないと隠した!
どうしようどうしよう、問い詰めるべきなのだろうか。
問い詰めてもいいのだろうか。
嫉妬深い女だとか束縛する女だとは思われたくなかった。
だが気になる、ちゃんと聞いておかないと今夜は眠れないかもしれない。



「ほんとのほんとに何もなかったんですか?」
「ああ、今日はいつものように執務をして兵の訓練をしただけだったな」
「・・・・・・」
?」
「・・・私、見ちゃったんですけど。・・・あの女誰ですか、抱きついてた人誰ですか」
「ああ、彼女か。子どもの頃近所に住んでいた昔なじみだ。久々に会ったんだがあれには困ったな」




 気にしないでくれと爽やかに微笑まれて言われても、はいそうですかと大人しくあっさりと引き下がれるわけがない。
本当になんとも思っていないのだろうか。
余計なことを考えて不安にならなくてもいいのだろうか。
は今日ばかりは趙雲の人あたりの良さを恨めしく思った。
困ったと言いながら笑顔でいるのも少し腹立たしい。
こちらは不安でいっぱいだったというのに、何だこの男の余裕は。
もう少し慌てるか驚くかすると思っていたにとって趙雲の対応は、不可解極まりないものだった。




「そうだ、この間言っていた北の外れにある泉。5日後に休みが取れたので行こうか」
「・・・はい、行きたいです!」




 今日のは不安顔になったり笑顔になったりと百面相で見ていて楽しいな。
趙雲はくるくると表情を変えるを見つめ、頬を緩めた。







分岐に戻る