女狐の艶笑     2







 北の都が金色だとすれば、成都はまるで泥の色。
緑豊かな豊穣の地だといってしまえば聞こえはいいが、所詮は田舎、土臭い。
しかし、こんな場所に彼はいるのだ。
彼に逢うために服を砂埃にまみれさせ、歩きすぎて足を痛め、はるばるここまでやって来た。
さて、彼はいったいどこにいるのだろう。
随分と懐かしい顔に驚き、そして喜んで迎えてくれるに違いない。
ああ、彼に逢うのが楽しみだ。
往来の人々の視線を一身に受け颯爽と歩く佳人は、これから再会するであろう男を想いうっすらと口元に笑みを刷いた。


































 馬岱の朝は、夜のうちに執務室前に不法投棄された大量の書簡を室内へ搬入することから始まる。
そろそろいい加減にどかんと怒ってもいいはずなのだろうが、熱血漢の従兄を支える冷静な武将という役目に就いているため、
部屋の前のゴミの山を見下ろす時はいつも苦笑するに留めている。
ちなみに、これら屑どもを処理するのはに任せている。
暇を持て余しあちこちへふらふらされても心配なので、執務には全く無縁のところで働かせている。
馬術に優れているばかりに、の行動範囲は限りなく広い。
朝早く出かけ夕刻までに帰って来れる場所となると、成都郊外の農村も含まれてしまう。
そのような遠方にまで行って何かあれば一大事だ。
最近は彼女専属の従者兼護衛をつけたからまだいいが、それでも油断は禁物だった。




「岱兄上、この人前も岱兄上に書簡送ってたよ」
「そうですか。懲りない方ですねぇ」
「馬岱様、こちらの女官はご自分の絵姿も同封されております」
「えー、それはさすがに燃やしにくいよねー」
「はい・・・。いかがいたしましょう馬岱様」




 部屋の隅に大量のゴミを持ち込みせっせと分別に励んでいると従者を見て、馬岱は口元を緩めた。
先日ちょっとした謀略に巻き込まれ戦場へ赴いたと再会した従者は、かつての涼州軍の者だった。
見どころのある若者だからと馬超が譲り受け、今はもっぱらの相手をさせている。
良くも悪くも正直者で働き者の彼は、ただの雑用である馬岱の私的文書焼却行為にもせっせと手を動かしている。
若干に振り回されているようにも見えるが、彼のおかげで少なくともの暇な時間は減ったらしい。
できればそのまま趙雲との逢瀬も邪魔してほしいのだが、それはできませんお嬢様がかわいそうですと全力で拒否された。
上司に向かって意見するとは何事かとも思ったが、確かに、家族ではないただの従者にの恋路を邪魔していい権利はなかった。
家族であっても邪魔をしていい権利がないとは、馬超も馬岱もわかっていない。




、楊丹。絵姿は拾得物として簡擁殿の『民・相談室』へと持って行きなさい。他はいつものようにして下さい」
「かしこまりました。ではお嬢様参りましょう」
「うん! あ、途中で寄ってきたいとこあるけどいい?」
「はい、参りましょう」





 大きな布袋に書簡その他を詰め込み、城外の焼却場へと向かう。
初めの頃は煙が目に沁みて痛かったが、毎日やっているうちに慣れてきた。
なぜこんなことをしなければならないのだろうと思っていた時期もあったが、最近では言われる前から執務室で仕事をしている。
これをやれば兄たちの機嫌がほんの少しだけ良くなるのだ。
良くなった時を見計らって趙雲に逢いに行くのがの日常である。




「岱兄上、こっちに来てからほんと変わったよねー。前だったら手当たり次第に女遊びしてたよ」
「そうなんですか・・・。・・・もしや、既に心に決めた方がおられるとか」
「それはないよー! だって岱兄上、他人に心を開くことなんて滅多にないんだよ。私、楊丹が岱兄上に気に入られた理由が今でもわかんないもん」
「俺も、馬超様の下に戻ってきてまさかお嬢様の従者にさせられるとは思いませんでした・・・。・・・兵として扱っていただけると思ってたのに」




 の身辺警護が一般兵卒にとってはこの上なく光栄なことで、なおかつ畏れ多い職務だということはもちろんわかっている。
わかっているのだがなぜだろう、厄介事を押しつけられただけのような気がしてならなかった。
妹の馬術についていける奴はお前しかおらんのだ、頼んだぞ楊丹と馬超から指令を受けた時は拍子抜けさえした。
従者などやったこともないし、そもそもからもそれほど必要とされていなかった。
今でこそ使い走りのような暇潰しの相手のような地位になれたが、ここに至るまではそれはもう大変だった。
同僚からの羨望の眼差し、趙雲からの方向違いの嫉妬、そして、予想以上のの行動。
すべてを乗り越えて今があるのだ。
乗り越えたおかげなのか、今は馬超というよりも馬岱の指揮下に入っているような扱われ方をしている。
楊丹は、馬岱の人となりを今でもよくわかっていなかった。
わからないまま手探りでできるだけ自分を偽らず接していると、いつの間にやら気に入られていた。
警戒されるよりはましだが、このまま一生兵として功を挙げることができないような気がした。




「よし、今日のお仕事おしまい! さ、子龍殿に会いに行こ!」
「では俺は簡擁様にこれを届けてまいりますので、途中までご一緒させていただきます」
「そっかそれあったね、忘れてた」




 そういや例の娘さんとはどうなったの、おかげさまで仲良くさせていただいておりますと他愛ない話をしていると、前方に趙雲らしき人影を見かける。
顔をぱあっと輝かせ駆けだす態勢に入り声を上げようとしてるを、楊丹は2歩ほど下がったところで見つめた。
今日は割と早めに解放された。
早く簡擁に絵姿を届けて、鍛錬に加えてもらおう。




「子龍、見ーつけた」
「え・・・・・・?」




 のものではない声が聞こえ、楊丹は伏せていた顔を上げた。
立ち竦んだの前方で、趙雲が美女に抱きつかれている。
先程の言葉もおそらくはあの女性が発したものなのだろう。
字で呼ぶとは、よほど親しい仲なのだろう。
さすがは趙雲様だと思いかけ、はっと我に返った。
趙雲と親しい仲なのはしかいないはずなのに、だったら今彼に抱きついている女性は何だというのだ。
にぐいっと袖を引かれ、建物の影に連れ込まれる。
顔だけ出してこっそりと趙雲と女性の様子を伺っていたが、ぼそりと呟いた。



「見た? 見たよね、あの女誰、子龍殿の何」
「さあ・・・・・・。で、ですが趙雲様も慌てておられますし、もしや人違いでは・・・」
「子龍って言ったんだから人間違いじゃないでしょ。まさか、浮気・・・!?」
「そのようなことはありますまい!」
「ああ、気になる気になる・・・。楊丹、やることやったらあの女について調べましょ。私も後で子龍殿を問い詰めてみる!」




 戦場での馬超のようにギラギラと闘志を滾らせたを見て、楊丹はもう後には引けないと悟った。







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