水面の月は沈まない     中







 子が成せない体ではないと思う。
多少まろやかさには欠けるが、女の体はしている。
ただ、子を欲しいと思ったことはない。
哀れだと思うから、望んでいない。
自分1人の体調すらろくに管理することのできない身で、他を育てられる自信がなかった。
子を不幸な目に遭わせるのではと心苦しくもあったし、申し訳なかった。
もしこの男の妻となれば、男は子を望むのだろうか。
他にも大勢の妻がいるだろうに、大して強くも貴くもないこの血を継いだ子が欲しいというのだろうか。
解せぬことよ。
はそうぼやくと、留め置かれて久しい宮城から中庭を見下ろした。
今はまだ妻ではなく、客人として迎えられている。
体の調子が思わしくないとごねたから、治るまではと曹操なりに考えているのかもしれない。
体調が悪いのは本当だが、かといっていつまでも使ってはいられない。
次は何を言って誤魔化そうか。
聞いた話では曹操というのは他人の妻でさえ食指を伸ばす好色家というので、他の男の妻というだけでは逃げられまい。
むしろ、男を紹介しろなどと言われても元よりこちらにはそんな男はいもしないのだから墓穴を掘るだけだ。
騙されるのは嫌っていそうな彼だから、ひょっとしたら殺されてしまうかもしれない。
困った、万策尽きた。
このままではあっさりと曹操の妻にされてしまう。
そこまで考えたはふと、自分がなぜかの男のものとなるのを嫌がっているのかわからないまま拒絶していることに気が付いた。





「嫌う理由はないのでは・・・?」
よ、ここにおったのか」
「曹操様」





 調子はどうかと尋ねられ、あまりと短く答える。
嘘をついてはいない、体調が優れている日など一年のうちでもほとんどない。
は物珍しそうにこちらを見つめてくる男に、何かと問いかけた。
じろじろと見られて気分は決して良くはない。
どこを見られているのか気が気でなかった。





「お主、生まれはこちらではないな」
「遥か南、江南の地がわたくしの故郷。里へ帰ろうとしていたわたくしをこの地へ留めたのがそなたです」
「供も連れず単身帰るなど正気とは思えんな。お主、本当は帰るつもりなどなかったであろう」
「・・・・・・」
「大方、こちらで当てがなくなり飛び出したあたりか」
「・・・・・・」
よ、早うわしのものとならぬか? 帰る気もない里を目指すよりも、わしの傍におるがよい。無論不自由はさせぬ」
「断る。わたくしは見ず知らずの男の情けを受けるほど落ちぶれたとは思うておらぬ」
「見ず知らずではあるまいに。わしはとうにお主の口を吸うておる」
「いつのことやら」
「馬車より放り出され動転したお主を連れ帰る際に、な」





 わしはどうやら、一目見てお主を好いてしまったらしい。
そう悪びれることなく言ってのけ体を寄せてきた女たらしに、は返す言葉も反発する気も失せた。
































 あんな美姫が道端にいるものかと、初めはもちろん疑った。
美しい女は好きだが、欲望のままに手を出して痛い目を見たことも何度かある。
たまたま巡察に出た先でたまたま馬車の事故に遭遇し、たまたま近くに放り出されたのが無残にも砂埃を被った美人だった。
都合が良すぎて罠かとももちろん思った。
思ったが、連環の計にしては雑だしなによりも美人が苦しんでいながらもなかなかに手強い。
かなり名の通った群雄であるはずの自分の妻にと言っても、靡かないどころか拒絶する。
宮城に連れ帰っても体調が悪いの一点張りで、近付けようともしない。
確かには他の女よりも細く白く軽そうだが、そこにも惹かれているので相当お預けを喰らっている。
いっそ無理やりにでも・・・とも考えたが、それでは勝ったのに負けたような気分になる。
気高い彼女を心から振り向かせて妻としたかった。
曹操はようやくを連れ込むことに成功した寝所で、の細い肩を抱いた。





「お主は何故わしを拒む。この手の話を断った女はお主が初めてじゃ」
「そなたこそ、なにゆえわたくしのような女を望む? 明日をも知れぬこの命なのに」
「体が悪いのはまことか」
「嘘など言って何の得になる。まことです、人には移らぬ病であることがただひとつの救い」
「治らぬのか? もう長いのか?」
「長い・・・。この体のせいで家の役にも立たぬ、好きな男に添い遂げることもできぬ。静養という名で家を出され、その先で供すら命を奪われた。
 そのまま果てるつもりだったのだ、もう放っておいてはくれぬか」





 生きていてもろくなことがないのだと嘯くの肩は、小さく震えている。
確かに、話を聞いた限りでは彼女のこれまでの人生は相当に生きにくかったように思える。
どうでも良いと悲観する気持ちもわからなくはない。
だが、どんなに彼女が世を儚んでいても未だ死んではいない。
それはきっと、生きているうちにまだやり残したことがあるからだろうと曹操は思っていた。
死ぬ前に妻になってくれてもいいのではないか。
思わずそう呟いていたのか、が不思議そうにこちらの顔を覗き込んでくる。
とても綺麗な瞳だった。





「長くは愛せぬのに、それでも妻にと望むそなたがわたくしにはよくわからぬ」
「わしはお主がこれから死ぬまでの人生が欲しいのだ。短くても構わぬ、長引けばもっといいが」
「そのようなことを言ったのはそなたが初めてです」
「であろう。わしはやらぬ後悔がなによりも嫌なのだ。よ、わしはお主を一目見た時より愛しいと思うておる。決して無理はさせぬ、苦しい思いはさせぬ。
 お主の時間を、身を、心をわしにくれ。わしはお主の一生を愛そう。わしは、お主に一生愛されていたい」





 これから先、いったいどれだけの期間生きていられるのかわからない。
それでも曹操は構わないと言ってくれた。
死ぬまで愛してくれると言った。
曹操が初めて言ってくれた。
彼ならば、きっとこの身を見捨てはしない。
疎まれ追いやられ、寂しい思いをしていることに気付き虚勢を張り続ける必要もない。
は曹操をじっと見つめた。
本気かと尋ねると、本気でしか言えぬと返ってくる。
そうであるならば、こちらが迷う必要はない。
残りの人生でこちらも夫のことを本気で愛せばいいだけだ。
それにもう既に、取り繕うことなく言葉を重ねてくれた曹操を好ましく思い始めていた。





「わたくしの本気は・・・火よりも熱いやもしれぬぞ?」
「見上げた根性よ。それでこそ曹孟徳の妻に相応しい」





 もう二度と故郷へ帰ることはない。
長江を見ることも海を見ることもない。
それでもいいのだ、この地で思い出を作ることができるのならば。
は胸に手を当てると、口元に小さな笑みを浮かべた。







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