水面の月は沈まない     後







 ついにその時が来たと、体が告げている。
曹操に見初められ妻の1人となり生きてきたが、妻でいられる時間もそろそろ終わりのようだ。
はのろのろと体を起こすと、脇に置いていた薬を取ろうと手を伸ばした。
曹操は体をよく慮ってくれる。
体調が優れない時はよく休めと言ってくれるし、腕のいい医師にも見せてくれた。
打つ手はやはりないらしい。
わかってはいたが、改めて言われるとさすがに寂しい。
不思議だ、今までは寂しいと思ったことなど一度もなかったのに、今は辛いと感じてしまう。
薬とも、久々に依りを戻そうとしている。





「・・・あ」




 まだ残っていると思っていたが、どうやら昨日ですべての薬を飲み切ってしまったらしい。
薬は曹操が用意してくれているもので、詳しい出所は知らない。
おそらくはたまに現れる医師の伝手によるものなのだろうが、彼が普段どこにいるのかなど知るはずがない。
頼みの夫はここ数日は他の妻や供たちと出かけているので当てにならないし、そもそも他の妻との間に余計な波風を立たせたくはない。
1人で街へ出てもいいだろうか。
たまには気分転換に外に出ればとも言われていたし、これ以上体調が悪化して本当に動けなくなる前に、やれることをやっておきたい。
は部屋を出ると、かつて曹操に教えられていた隠し通路へと向かった。
人目につかず抜け出すことができる曹操の身内やごく限られた一部の側近たちしか把握していないらしいかの道は、何度か通ったこともある。
万一はないとは思うが、万一のことあらばわしのことなど構わずここより逃げよと言ってくれた時の夫の顔はとても真剣で、本当にそうせねばなるまいと決心した。
久々の外はどうなっているのだろうか。
以前も勝手に連れて来られ勝手に養われていただけだったので、そう詳しくは思い出せない。
あの男は無事にやっているのだろうか。
国が乱れていないということはつまり、可もなく不可もなく穏やかな日々を過ごしているということだろう。
は通路の外に広がっていた賑やかで華やかな光景に、目を細め感嘆の声を上げた。






























 つい視線で追ってしまうほどに、潜在的に彼女を想っていたのだろうか。
荀彧は街ですれ違った若い女性に思わず振り返ってしまった自身に、戸惑いを覚えていた。
屋敷を出て行ったきり、彼女とは会っていない。
本当に故郷へ帰ったのかもしれないし、彼女が望んでいた通り、どこぞで野垂れ死んだのかもしれない。
一応探しはしたのだが、街のどこにも彼女はいなかった。
人混みの中でも見失わないようじいと観察していた女性の背中が、ごほんという決して軽くはない咳で大きく揺れる。
黙って見ていることができなかった。
いっそ人違いであってほしい、そちらの方がどれだけ心安らかになれるか。




「もし、そこのお方・・・」
「え・・・?」




 緩やかにこちらを顧みた顔は驚くほど白い。
咳き込む口元に添えられた指はとても細くて、握れば折れてしまいそうだ。
気だるげな瞳が、こちらを認めた瞬間わずかに見開かれる。
夢であればと祈りすらしていたのに、今はこの僥倖に心から感謝している。




「そなたは・・・」
「急で申し訳ありませんが、失礼」
「な、何を・・・っ」




 居てもたってもいられなかった。
今はただ、弱い彼女を保護することしか考えられなかった。
平時であればもっと考えを巡らしているのに、今この時だけは軍師の顔を捨てていた。
人目を気にすることなく、戸惑う女性を抱き上げ馬に乗せる。
とりあえず屋敷に連れて帰ろう。
薬はいつぞやの医師に頼めばいい。
彼は主の頭痛をも和らげる腕を持つ名医だ。





「離せ、わたくしは、そなたの・・・っ!」
「今は聞けません。・・・ずっとあなたを探していました。あなたを追い続けていた」




 きっと彼女は手放してはいけない人だったのだ。
今の彼女の境遇など気にならない、どうとでもなる。
荀彧はやめてと非難の声を上げながら胸を叩き続けるに、やめませんと答えた。






























 まさか、もう一度この屋敷を訪れることになるとは思いもしなかった。
久々に出会った相手はよほどこちらに恨みだか未練でもあったのか、彼にしては酷く手荒な扱いだった。
触れることすら躊躇っていた過去の姿はどこにも見えなかった。
は横たえられた寝台の上から天井をぼんやりと眺めたまま、これからのことを考えていた。
拾われてすぐの頃ならばともかく、今の状況でここに長居するのは良くない。
荀彧はきっと何も知らずに連れ去ったのだろうが、それでは困るのだ。
誰かに知られてあらぬ疑いをかけられ面倒事になる前にここから逃げださなければ。
は出ない力を振り絞り体を起こすと、そろりと立ち上がり出口へと向かった。
体は相変わらず苦しいが、横になっていたおかげで少しは落ち着くことができた。
このくらいであれば戻ることもできるだろう。
そっと戸に手をかけようとしたは、こちらが開く前に開いてしまった戸と、そこから現れた人物を見上げああと嘆息した。
どちらへ行かれる予定ですかと静かな声で尋ねられ、帰りますと答える。
どちらにですかとまた訊かれ、家にですと返す。
その体でと言われたは、いよいよ耐えられなくなり声を荒げた。





「勝手に連れられてきたのです。勝手に帰って不都合がありましょうや」
「そのようなふらついた体で外を出歩くのは危険です。襲われでもしたらどうなさるのですか」
「襲った者に言われとうない」
「まだ襲っておりません」
「頼む、わたくしを帰らせてくれ。わたくしはここにいてはならぬのだ、そなたのためには何ひとつならぬ・・・」
「私のためになるのかそうでないのかは私が決めることです。あなたはとても大切な方です。私は今になってようやくそれに気付きました」




 口論がこれほど体力を使うものだとは思わなかった。
相手が軍師であれば、こちらに勝ち目がなさそうで尚更分が悪い。
はふうと大きく深呼吸すると、胸に手を当てた。
こんな所で油を売っている場合ではなかった。
荀彧がこちらをどう思っていようが、相手にするつもりは微塵もなかった。





「お疲れのご様子です、体を休めて下さい」
「断る。・・・も、放っておいてくれ・・・」
「・・・そのようなこと」





 放っておけるのならば、連れてくることはなかった。
今にも崩れ落ちてしまいそうなを再び手放すことなどできようはずがなかった。
荀彧は自力では決して動こうとしないの体を抱き上げると、抜け出されたばかりの寝台へと横たえた。
以前も用意していたもののついぞ一度も使ってくれなかった薬を飲ませようとするが、今日のも頑なに首を横に振り口を閉ざすばかりだ。
このまま死んでしまったらどうするのだ。
彼女は今もまだ早く死にたいと思っているのか。
決して死なせはしない、死なせてなるものか。
嫌がるの小さな顔を傷つけないようにそっとつかみ、薬を口に含む。
いや。
そう呟きわずかに開かれた口を己の口で蓋をすると、がじたばたと暴れる。
きっと彼女なりには精いっぱい抵抗しているのだろうが、文官といえど戦場へ出てそれなりに戦っているこちらには何の意味も成さない。
荀彧は薬がへと渡り、こくりと嚥下されたのを確認するとゆっくりと唇を離した。
飲み切れずに口の端から敷布へ垂れていく薬湯を指で掬い再びの口元へ宛がうと、力なく手を払われる。






「そなたは・・・、何を・・・・・・」
殿が落ち着かれたようでなによりです」
「そなたは、そなたは・・・・・・っ、なにゆえわたくしの居場所を奪うのだ・・・・・・。わたくしに、どうせよというのだ・・・」
「私の妻となっていただきたいのです」
「できぬ」
「それは、あなたに夫君がおられるからですか」
「そなたがどうこうできる相手ではない。私の夫は曹孟徳だ」
「左様でございましたか。さすがは殿、素晴らしい方を見つけられたと思います」
「そう思うのなら、なにゆえ・・・っ!」
「私にとっても殿は、何者にも代えがたい素晴らしい方だからです。その思いは、殿に負けるつもりもございませんゆえ」






 かつて知り合った男は、これほどまでに激しい男だっただろうか。
は再び口を吸われながら、かすみゆく意識の中でぼんやりと目の前の端正な顔を見つめていた。
彼がこちらを好いていることはうっすらとではあるが、気付いていた。
気付いていて、あえて挑発するようなことを言った覚えもある。
どうせあれきりの関係だ、もう二度と会うこともあるまいと思っていたから言い捨てたのだ。
息災でいたのは安心したが、こんな目に遭わされるとは思いもしなかった。
夫以外の男に情けを受けるとは考えたこともなかった。
曹操に知れたらどうなってしまうのだろうか。
どうせ長くは生きられないこの身は惜しくないが、有能な部下である彼を逐うことだけはやめてほしい。
守れなかった自身にのみ責任はあるのだから、軍を壊さないでほしい。
殿と呼ばれ、体を揺すられ我に返る。
こちらの体調がすこぶる悪いというのに無理を強いてくるとは、彼は鬼畜だろうか。
苦しそうで嬉しそうで辛そうな、様々な感情がない交ぜになったような表情を浮かべている男に、はなにと掠れた声で答えた。





「私のことが嫌いになりましたか」
「・・・・・・」
「私はあなたをお慕いしております。もう会えぬとわかっているのであればなおのこと、あなたには私を覚えていただきたい」
「そなたは・・・・・・いや、いい・・・・・・」
「おっしゃって下さい。もっとあなたの声を聞かせて下さい」
「頼む・・・、わたくしを殿の元へ帰してくれ・・・」





 この先は何を言っても無駄だ。
何を言ったところでもう、彼との間に起きてしまった出来事をなかったことにはできないのだ。
体も動かせず、抵抗も敵わなかったこちらに今更できることもないのだ。
ここで舌を噛んで死んでしまっては、荀彧とのことが知られ彼にも咎めが向いてしまう。
生まれてからろくな目に遭わなかったが、死ぬ時まで散々な人生だった。
帰ったら、いっそ死なせてくれと嘆願しよう。
そう思ったが最後、意識を飛ばしたが次に目覚めたのは顔面蒼白の曹操が見下ろす自室の寝台の上だった。







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