水面の月は沈まない     Epilogue







 自身と曹操との間でどんなやり取りがなされていたのか、彼女が知る日は来なかったはずだ。
あれだけのことがあったのに変わらぬどころか以前よりも更に愛情を注ぐようになった夫に、きっとは戸惑いつつも喜んでいたに違いない。
病の身でありながら保ち続けられたのは、生まれた我が子と一日でも一瞬でも多くの時間を過ごしたかったからだろう。
よく保ったと思う。
正直なところ、あれがあった心労もたたり数日のうちに死んでしまうのではないかと騒然となったほど、当時の彼女は衰えていた。
衰えさせたのは自分が無理を強いたせいだとわかっていたから、あの頃は生きた心地がしなかった。
生まれて物心つく前に母を失った子は、曹操の正室である卞夫人に引き取られ彼女の実子ら異母きょうだいと息災に暮らしているという。
奥向きのことなど一介の配下にはいちいち伝えるものではないと思うが、それでも主が話してくる真意がどこにあるのか荀彧はまだつかみ切れていない。
だが、理由などどうでも良かった。
病弱な側室が人を呼ぼうとままならぬ体で普段使われることのない脱出路に迷い込み、数日後に人事不省で発見された。
その後、養生に務めていたが間もなく懐妊が発覚した。
その末に生まれたあの子は己の血を分けた娘、そうに違いない。
もちろん曹操も彼女は自分の子だと思っている。
当然だ、不義の子である証はない。
だが、曹操の娘である証もない。
思うだけならば自由なのだ、はさぞや苦しかっただろうが。





「まあ荀彧殿、ごきげんよう」
「これはこれは、公主」




 雪のような白い肌と、ほっそりとした体つき。
けれどもその細さは病ではなく、彼女生来のものだろう。
荀彧は目の前にゆっくりと現れた公主を視界に入れると、目を細めた。
父とされる曹操に似たところはあまりない。
母によく似た美しい娘だ。
夏侯惇に護身術を習っているらしく、その話を彼本人から聞かされた時は怪我でもしたらどうするのですかと声を荒げていたらしく、周囲に笑われた。
殿がもっと健康で若い頃に会っていればこうだったのかなと思いながら見ていると、おかしくあり切なくもなってくる。
急に笑い始めたこちらを訝しく思ったのだろう、公主が首を傾げ名を呼ぶ。
あまりによく似ておいでだったので。
思わずそう答えると、曇っていた公主の顔がぱあと明るくなり荀彧はまた頬を緩めた。





「似ているとは、母にでございますか?」
「ええ。よく似ておいでです。公主のお母上も大層美しい方でいらっしゃったのですよ」
「まあ・・・。母はわたくしが幼い頃に亡くなっており、あまり知る者もおらぬのです。荀彧殿は母をご存知だったのですね。嬉しゅうございます、母はどのような人だったのでしょうか」
「私もあまり多くはお会いしたことがないのですが・・・。殿は、「荀彧」・・・はっ」





 死に別れた佳人を思い出しながら口を開いた直後、背後から名を呼ばれる。
主が直々に訪れるとは珍しい。
さては愛娘を探しに来たのだろう。
荀彧は自身の元からあっさりと父である曹操の傍へ歩み寄った公主を確認すると目を伏せた。





「官渡の件についていくつか詰めたいことがある」
「かしこまりました」
「ではわたくしは失礼いたします。荀彧殿、またぜひお話をお聞かせ下さいませ」
「はい、ぜひ」





 袁紹との命運をかけた戦いの話をこんな所でするはずがない。
公主を見送った曹操は、くるりとこちらへ振り返るとどうじゃと口を開いた。




「大きくなったろう。にもよう似てきた、性格も」
「左様でございますか」
「あれに余計なことは話しておらぬだろうな」
「はい。私はただ、城で行き倒れて数日経っていたあの方を初めに見つけただけですので、話せることはありますまい」
「そうであったな。お主が何度どう思おうとお主の勝手だが、あれはわしの娘だ。お主があれを気にかけているはわかるが、あれは、ではない」
「もちろん承知しております。公主は・・・命を懸けてでもお守りする殿の大切な姫君であらせられます」






 最悪を恐れたが、それでもなお遺してくれたたった1人の彼女の血を継ぐ者だ。
大切にしないわけがない。
荀彧は中庭で友人らしい夏侯淵の子息と語らっている公主を見下ろすと、柔らかな笑みを浮かべた。








あとがき
書いている人は、曹操の娘だと信じています。





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