月夜に恋して     10







 夢か現実か、それともとうの昔に肉体が朽ちてしまっただけなのか。
夢だとしたら、これは間違いなく悪夢だと言えるだろう。
全身を貫いた痛みとは決別することができたが、は今己が置かれている状態を喜ぶことはできなかった。
たとえ命永らえることができたとしても、どこに敵軍に捕らえられることを良しとする人間がいるだろうか、いや、いない。
覚醒し、ひととおりの処置を施された後は牢ではなく小部屋に放り込まれた。
牢獄に繋がれなかったのも捕らえてすぐに首を刎ねられなかったのも、きっと彼が頼んだからだろう。
厄介なことこの上ない娘を庇って、どうするつもりなのだろうか。
称えられるべき功を立てたのだから、そのまま大人しく身柄を引き渡せば良かったものを。
あの時出逢い別れ、それなりの年月が2人の間を隔てた。
愛しい人に想われるのは、女としては至極幸せなことである。
しかしは、凌統の真っ直ぐな思いに戸惑うことしかできなかった。
顔を合わせたくないとすら思った。




「・・・・・・」



 足音が聞こえ、部屋の前で鳴り止む。
誰か来たのだろうと身構える。
1人の護衛兵を連れて現れたのは、若い男だった。




「気分はどうだ、公主」
「良い。・・・そう言うとお思いでございますか?」
「思わぬな。さすがは曹操の娘よ、私を前にしても臆さぬか」
「覚悟はとうにできておりますゆえ」




 父が巨額の金を投じて作り上げ鍛錬に鍛錬を重ねた大船団が、目の前の若者が率いた僅かの兵力に敗走した。
認めるのにはいささか抵抗があったが、彼もまた乱世を生き抜く力を持った英雄なのだろう。
そう歳が変わらない、しかししっかりとした統率力を持ち得た君主に仕えている凌統は幸せ者だ。
孫権のような男が君主だったから、無茶を承知で頼み込んだのだろう。




「凌統という将を知っているだろう」
「はい」
「凌統に感謝するがいい。そうでなければ、とうに失っていたやも知れぬ命だ」




 あぁやはり。
は孫権の傍らに控えている鎧兜を身に纏った男へちらりと視線を向けると、静かに目を閉じた。
どうしてこんな無理な願いを口にしたのだろうか。
そう頼みあっさりと受け入れる自分ではないとわかっているだろうに。
逃げ場のない戦場で彼と再会し対峙した時、は凌統にならば殺されてもいいと思っていた。
囚われの身となり衆人の目に晒され一生を終えるよりも、せめて愛しい人に斬られて死にたかった。
優しさは時に人を苦しめる。
凌統が今、自分に何を望み生きているのかにはわからなかった。
わからなかったが、これから言う言葉は彼が望むそれではないとは知っていた。




「敵将を憎むことはあれど、感謝の思いを抱くことなどありえません」
「・・・なに?」




 孫権の瞳に僅かな怒りが宿る。
は青みを帯びた彼の瞳をひたと見据えると、言葉を続けた。




「わたくしは死も覚悟した上で戦場へと参りました。命を賭して戦うことを誓っていながら捕らわれたこと、武人として屈辱以外の何者でもございません」
「お前は武人ではない。曹操の娘、公主であろう」
「武人であっても公主であっても、私は本来であれば今はもう既に亡き存在。部下を思いやる心はご立派です。
 ですが君主たるもの、時には己が考えのみで決断することも必要かと思っております」




 は躊躇うことなく孫権へと歩み寄った。
微動だにしない護衛兵の脇をすり抜け目の前に立つ。
まさか説教を受けるとは思っていなかったのか、怒りの色はとうに失せた瞳で見下ろしている孫権を真っ直ぐ見返した。





「孫権殿、あなたの腕の中には、あなたを慕っている多くの民や兵、将軍方が生きています。
 わたくしごときの問題に手を拱いている時間も余裕もないはず。後に禍根を生み出すような存在は芽を摘むべきでございます」
「・・・なぜお前はそうまで・・・」



 は頬を緩めると、後頭部に手を伸ばした。
激戦を潜り抜けてきても千切れることなく残っていた、色褪せた紅い紐をゆっくりと外す。
そして護衛兵へと向き直ると、彼の手に紐を握らせた。




「きっと、わかって下さらないと思います。あるいは、わたくしが知ってほしくないと思っているからかもしれませぬが」




 護衛兵の手がに触れようと宙を舞う。
は2人から離れるとそのまま背を向けた。
付いて行きたいと言ったのか付いて来いと命令したのか、は護衛兵の正体にはすぐに気付いていた。
気付いていたから、また冷たい言葉を浴びせて突き放した。
勝手に想い合っているだけならばまだ良かった。
結ばれてはならない関係だった。
これからまだ目覚ましい活躍をしていくであろう凌統の明るい未来を、己が出自のせいで阻みたくはなかった。
今度こそ本当に夢を終わらせることができる。
孫権と凌統が退出したのを確認すると、は深く息を吐いた。







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