月夜に恋して     9







 崩れゆく船から視線を逸らし、背を向ける。
率いていた兵のうち、戦える状態で撤退してきた数はあまりにも少なかった。
完敗を喫するのは久々のことだった。
勇壮な軍船も屈強な将兵も喪った今、押し返す力は残っていない。
身ひとつになってでも逃げるべきなのだろう。
曹操は親衛隊に囲まれる中、馬に跨った。
隣に控えているはずの愛娘もここにいない。
あれだけ安全な場所にいろと申しつけていたというのに、約束を破るとは。
・・・いや、戦場に安全な場所など初めからなかったのだ。
生きているのか死んだのかすらわからない。
助けに行きたかった。
若い時分、戦乱に巻き込まれ疲れ切っていた彼女の母をこの地から連れ出したように、迎えに行きたかった。
護衛としてつけた張遼もいまだ帰還していない。
を守り撤退しているのかもしれないと思い、不安を紛らわせようとする。
兵がざわめき人波が左右に割れる。
目の前に現われた男の姿に、曹操はをいよいよ諦めるしかなかった。
全身返り血を浴び真っ赤に染め上がっている張遼の隣に、待ち望んだ娘はいなかった。





「無事であったか、張遼」
「殿、申し訳ございません・・・・・・! 公主が・・・・・・!!」
「・・・良い。この混戦じゃ、はぐれるのも致し方あるまい。わしはお主の帰還を嬉しく思っている」
「ですが・・・!」
「あれも武人の娘。覚悟などとうにできていたであろう」





 張遼が思っているよりもは芯が強い。
死んだにしても彼女のことだ、あっさりと命を投げ出しはしないだろう。
兵の1人や2人道連れにしかねないような苛烈さも持ち合わせていた。
そういうところは自分に似たのだ。
男であれば子桓よりも優しいが、彼と同じくらい戦場では厳しい将になっていただろう。
曹操は小さくと呟いた。
母が生まれたこの地に骨を埋めることができるのならば、それはそれでいいではないか。
なまじ美しかったばかりに半ば強引に北へ連れて来られた血が、元の場所へ還る。
そう思い、悲しみを薄めることしか今はできなかった。
美しく聡明だった彼女の名を呼ぶのは、これで最後にしよう。
曹操は炎を吹き上げながらも辛うじて船としての原形を留めていた最後の船が真っ二つに割れ沈むのを見送ると、退路を歩み始めた。
































 炎渦巻く船に突入したきり、凌統が帰らない。
曹操の首こそ取り損ねたものの大勝利を収めた孫権軍陣営は、行方不明となった凌統を案じていた。




「あいつ、退路断たれちまったんじゃねぇか?」
「甘寧、滅多なことを言うな!」
「でもよ、あいつおかしかったんだぜ? あちこち駆け回って、探し物してるみたいで」
「・・・・・・まさか、本当にあの娘を・・・?」





 従軍しているかも定かでなく、凌統のことを覚えているかどうかも怪しい姫君を探すのはやめろと忠告はしていた。
戦のためではない。
仮に再会しても、告げられる現実に彼が衝撃を受けることに恐れたからだった。
待ち受ける現実が残酷かもしれないとわかっていても、凌統はあの娘に逢いたかったのか。
周瑜は、周囲の心配を余所に探し続けているであろう凌統へかける言葉を見つけられなかった。
再会できる最初で最後の機会だとは思っていたはずだ。
だから探しているのだろう、危険な船内を今でも。





「・・・・・・おい、おっさん、あれ・・・・・・」




 甘寧が吹き上げる炎を指差した。
甘寧の指し示した先を見た呂蒙が、近付く人物に声をかけようとして口を開く。
言葉がいつまでも出てこないのは、炎の中から現れたのが待ち望んだ凌統1人ではなかったからだった。
両腕に抱えられぐったりとしているのは、見たこともない女性である。
仲間の姿を認め安心したのか、凌統は娘を抱えたままがくりと膝をついた。
何度名を呼んでも反応することはないのか、凌統の表情が曇る。
一旦俯いて再び顔を上げた彼は、硬直したままの甘寧たちに吐く息こそ荒いが落ち着いて話しかけた。




「遅くなってすみません。ちょっとこの子探してたら手間取っちゃいまして」
「おい・・・、そいつ誰だよ・・・・・・」
「敵さんの総大将の娘さん。とりあえず介抱してもらっていいでしょうか、殿」
「・・・本当に、曹操の娘なのか・・・・・・、凌統」
「本当です。お願いします殿、この子を・・・・・・、今は、を助けて下さい」





 突然とんでもない捕虜を突き出され、更に治療もしてくれと頼まれた孫権は混乱した。
彼女が凌統の言うように曹操の娘であるならば、どうとでも使える人質だった。
何か意味があってはるばるここまで連れて来た凌統の思いを無視し、勝利の証として首を刎ねることもできる。
飢えた兵たちの慰み者にすることもできる。
様々な選択肢から選ぶことができた。
しかし孫権は混乱している頭でも、凌統の願いを聞き届けることしかできなかった。
今は彼の願いに応えなければ、大切な武将の心を壊してしまうと直感で感じていた。





「・・・・・・わかった。凌統、お前には後で訊きたいことがあるが今は体を休めろ」
「・・・・・・」
「安心しろ。この娘を連れて来たのはお前だ。お前に何も告げず事を決めはしない」
「ありがとうございます、殿!」




 疲れと緊張が色濃く見えていた凌統の表情に、ようやくいつもの彼らしい柔らかな笑みが戻った。
炎の海へと真っ逆さまに落ちていく彼女を助けられたのは奇跡に近かった。
下手をすれば自らもまた下に落ちていたかもしれないというのに、よく怖がることなく助けたものだ。
あの時はきっと炎に飲み込まれる怖さよりも、目の前で愛する人が死んでしまうという恐怖の方が大きかったのだろう。
助けてからは口を開くどころか目も開けてくれず、ずっと気を失ったままだった。
死んでしまったのかと不安に思い、その度に手を握った。
熱気ではない体の温もりに何度ほっとしたことか。
を助けたい一心で帰還して、甘寧たちの姿を認めてようやく我に返った。
目の前で殺されてしまったら、彼女が辛い目に遭ってしまったら。
気が付けば、滅多に見せない真剣さで孫権に訴えていた。
後で素性が知られ厄介な思いをされても困るので、あえて先に彼女が何者かということを教えた。
彼女を助けてくれるのならば何をしてもいいとすら思った。
それだけ、凌統はのことを愛していた。
どんなに辛辣な言葉を吐かれようとも、刃を向けられようとも、彼女以上に愛を捧げられる人物を凌統は知らなかった。





「凌統、お前案外やるな!」
「・・・愛の力ってやつだよ」
「は・・・・・・?」




 これからしばらく、彼女は生涯味わったこともないような不遇の時を過ごすのだろう。
この地に迎えたいと思った時から、それはわかっていたことだった。
果たして彼女は、いや、権力も力もなく何の手助けもしてやれない自分は現実に耐えられるのだろうか。
彼女の本当の戦いはこれから始まろうとしている。
衛生兵たちに運ばれていくを、凌統はいつまでも見送っていた。







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