月夜に恋して     5







 長江を滑るように走る軍船の甲板に立ち、見たこともない景色を視界に収める。
太古より流れる川が大地を削り、現在の壁のような崖の姿を作り出したのだろうか。
戦場となる場所はもう少し開けた所だとは聞いた。
そうでなければ、巨大な軍船は動くことすらままならないとも聞いた。
教えてくれたのは、船を鎖で繋げることを提案したホウ統だった。
表情が伺い知れない装束を身にまとった切れ者だが、は彼に全幅の信頼を置くことはできそうになかった。
切れ者ゆえの深い思慮をしているだけだと信じたかったが、何やら別のことを常に考えていそうで妙な胸騒ぎがしたのだ。
疑っていると思われては困るので、いつもどおりに接してはいる。
本音と建前を使い分けるのは得意だった。
愛想笑いは公主の嗜みのひとつであるとも言えた。





「公主は不思議なお方だねぇ。あっしのような素性の知れない奴を贔屓にして下さるとは」
「ホウ統殿は素晴らしい才をお持ちだと伺いました。学ぶべき点は学びたい、そう考えております」
「さすがは戦場に来なさるだけあるねぇ。でも、前線に出ない公主に向こうの情報はいらないんじゃないかね?」






 さりげなく情報の提供を拒絶され、は苦笑を浮かべた。
お互いに腹の内を探り合っているようで、あまりいい気分にはなれなかった。
ホウ統にしてもそうだったのだろう。
無茶はするなと釘を刺すと、用があると告げ去っていく。
小娘と雑談に花を咲かせている暇はないといったところか。
は再び水面に視線を移すと、それきりホウ統のことを考えるのはやめた。
軍師として話すのなら、荀彧のような良くも悪くも裏表のない男が好きだった。
もっとも、直接好きだと告げたことはないのだが。
ただ、今の父と荀彧はかつてのような親密な関係とは少し違う様相を呈していた。
治める土地が広くなり人も増えると、それなりに揉め事も多くなるのだろう。
王でも丞相でも大した違いはないとは感じていたが、政治の世界は甘くはないらしい。
帝であらせられるあの方はわたくしよりも不自由な生活を強いられているのでは。
そう思う時もあったが、思ったところで何も変わらないと知っているのであえて口には出していない。
どうやら、意思を大して告げることなく生きてきたらしい。
たまに物を言うかと思えば市街に降りたいだの戦場に行きたいだの、奇行とも呼べるものばかりだ。
父が困るのも当然だったか。
諸将の前ではまず見せないであろう困り果てた父の顔を思い出し口元を緩めていたの背後に、人の気配がした。
体を冷やしてはなりませんと窘めるように言う人物を、はよく知っていた。






「船上は冷えます。中にお入りになった方がよろしいかと」
「こちらは許昌よりも暖かな場所だと聞いております。それに、寒くもございません」
「寒いと思われた時には既に病に冒されているやもしれませぬぞ」
「・・・張遼殿は母上のようでございます」





 母と言われたのが衝撃的だったのか気に障ったのか、張遼が黙り込んだ。
ここに来てからはさすがに父も忙しいらしく、こちらをあまり顧みらない。
としてはそちらの方が好き勝手できて楽しめたのだが、まさか張遼からお小言をいただくとは思っていなかった。
彼からは顔を合わせる度に叱られている気がするが、何か恨みを買うようなことでもしただろうか。
叱らなければ気が済まないというような存在なら、いっそのこと視界に入れなければいい。
は張遼の真意を測りかねていた。






「私を母のようだとは、公主も異な事をおっしゃる・・・」
「貶したわけではございません。わたくしは、父上と兄上の次に張遼殿に叱られているように感じているのです」
「そのようなつもりでは決して」
「わたくしがきっと、至らぬ事ばかりしているからなのでしょう」
「公主は素晴らしいお方です。私はただ、公主が心配で・・・」
「父上は張遼殿のような思いやりのある将を持つことができて幸せ者でございます。わたくしも、将軍方に迷惑をかけぬよう大人しくせねばなりませぬね」






 届いていない。少しも公主に想いが伝わっていない。
特に最後は、個人ではなく『将軍方』のうちの1人にまでまとめられてしまった。
曹操も彼なりに気を遣ってくれたのだろう。
政略結婚とはいえ多少は娘の心を将来の夫へ近付けてやりたいと気を回して2人になる時間を設けてくれたが、近付くどころか遠ざかった気さえしていた。
よりにもよって母親扱いである。
曹操軍随一の騎馬隊を統率し、時には鬼とも称される自分が母。
しかも心配するあまりに窘めている言葉の数々も、叱責と受け取られていた。
父曹操や兄、おそらくは主に曹丕のことを指しているのだろうが、彼ら2人の次に叱られているというのは張遼に多大なる衝撃を与えた。
普段口にしている言葉が彼女の耳に入るとなると、すべて悪いようになってしまうのでは、公主の心が近付くはずもなかった。
敵と認定されているといってもおかしくはない気もする。
あれは一筋縄ではいかぬ娘よとは聞いていたのでそれなりの覚悟は決めていたが、予想の遥か斜め下をいく彼女の反応の鈍さに張遼は、思わずため息をついた。














































 曹操軍に使者を派遣する。
偽装降伏をする旨を曹操軍陣営に伝えるための使者を決める選考に、ひときわ目立つ長身の優男が使者希望として参加していた。






「・・・・・・」
「凌公績、武器は両節棍でこう見えて結構腕も立つんですよ。あと自分で言うのもなんだけど抜け目ない性格だと思うし、密偵の真似事もやったことあるんで、損はさせませんよ?」
「・・・・・・呂蒙」
「・・・申し訳ありません周瑜様・・・・・・」





 戦が近付き忙しい時期にこの男は。
もちろん任務はちゃんと遂行してみせますととって付けたように付け加える凌統に、周瑜は当然叱責を浴びせた。
どこの国に将軍やそれになりそうな者を使者として敵国に派遣する馬鹿がいるだろうか。
本人はいたって真面目に応募したのだろうが、だからこそ余計に性質が悪い。
昔はもう少しまともな男だったはずだが、どうしてここまで頭の弱い男になってしまったのだろうか。
付き合っている友人の質が問題なのだろうか。
様々な人に鳥頭と呼ばれているような男となんだかんだあってもつるんでいるから、思考能力が低下してしまったのだろうか。
目的こそ曹操の娘だが、彼女と凌統の最近の著しい変貌はそう関係ない気がする。
ちらとしか話したことはないが、かなりしっかりした娘だったはずだ、彼女は。





「凌統、君の溢れる想いはわかったが、使者は別の男だ。戦を前に昂ぶる気持ちの行き先に悩むのならば、鍛錬に打ち込むか甘寧・・・・・・いや、陸遜の下で兵法を学ぶといい」
「なんで今言い直したんですか。俺、兵法はやですよ」
「君は少し頭を使う仕事をした方がいい。呂蒙、後は頼む」
「かしこまりました。・・・まったく、余計な手間をかけさせるな」
「はいはいすみませんでしたね。でも兵法は勘弁」





 曹操軍へ派遣された使者が凌統限定で耳寄りな情報をもたらしたのは、それから数日後のことだった。







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