月夜に恋して     6







 孫権軍から密使がやって来た。
人を整えた曹操軍の元に現れた使者は、降伏を願う将からの密書を携えていた。
従軍はしても戦闘には参加しないは密書と使者の話の内容を詳しく知ることはできなかったが、どうやらあちらは揉めているらしい。
孫権の父孫堅の時代から臣従してきた古参の将たちを蔑ろにして、若い周瑜が権力を振りかざしているのが気に食わないという。
水軍の調練は重ねてきたが未だにいささかの不安を残している曹操にとって降伏の話は、願ってもない話だった。
これで勝ったも同然である。
いつになく上機嫌な曹操は、いまひとつ冴えない表情を浮かべているに得意げに話して聞かせた。
人を疑うことの多い父にしては、今回はいとも簡単に信じたものだ。
降伏が事実であれば何よりも嬉しいが、はどうにも素直にはなれなかった。





「その使者は今もこちらに?」
「うむ。今後の手筈について話し合わねばならぬからの」
「左様でございますか・・・」




 使者に会うことはできないだろうか。
直接話すことができなくても、軍の編成くらいは聞けるのでは。
しかしには、使者に接近する術はなかった。
こればかりは父に頼んでも却下される。
兵に紛れて覗き見ることは立場上難しく、あまり気が進まなかった。
先日一斉に降伏してきた荊州の兵たちのことを好ましく思えなかった。
元々の曹操軍の兵たちと比べると、明らかに士気や覇気が違う。
水軍を操ることができなければ父は使わなかっただろう。
兵法に関しては素人であるもそのくらいはわかっていた。





「戦がいよいよ始まるのですね、父上」
「そうだな。・・・何度も言うが、決して戦ってはならぬ。戦わせるために連れて来たのではない」
「承知致しております。怪我をして帰ってくるなと、兄上からもきつく言われておりますゆえ」
「子桓はに甘いのう」




 兄も、父にだけは甘いと言われたくはないだろう。
出立前兄から全く同じ言葉を告げられていたは、根元はそっくりな父と兄を思い頬を緩めた。



































 凌統は不貞腐れていた。
使者には選ばれず、よりにもよって陸遜の元で兵法の勉強である。
可愛い顔してやることは鬼畜だ。
陸遜の事は好ましく思っていたが、彼に勉学を教わるのだけは苦手だった。




「いいじゃないですか、私なんて出陣すらできないんですから」
「そりゃ気の毒だけど、何も悪いことしてないのにここに放り込まれる俺も哀れとは思わないかい」?
「そうは思いません、まったく」




 物覚えはいいんですからもっと日頃から励めばと文句を連ねる陸遜に、凌統は苦笑した。
凌統も一応ひととおりの学問は学んだのだ。
必要性を感じず、記憶として残っている知識はないが。
学問を修めても女にもてはやされるわけでもなく、戦場で武器になることもない。
そう思ってからは、ほとんど書物を紐解いていない。
何よりも、部屋に籠もっていることが大嫌いだった




「戦もまもなく始まると聞きますし、上手く黄蓋殿は燃やして下さるでしょうか」
「軍師さん最近そればっかり言ってる。火計ほんと好きだねぇ」
「長江に浮かぶ曹操軍の大船団が紅蓮の炎に包まれる・・・。素晴らしい光景だと思います、私もやりたい」




 燃える大船団を思い浮かべたのか、うっとりとした表情を浮かべている陸遜を尻目に凌統は先程密使から渡された紙を握り締めた。
さすがは自分を退け周瑜に認められた才能だけはある。
ついでがあればちらっと調べてほしいんだけどと頼んでいた私的な頼みも聞いてくれるとは。
凌統は曹操軍へ赴いた使者の力量に感心していた。




(曹操のごく近しい場所に若い娘、ねぇ・・・。側女だったら困るけど)




 表へ顔を出すことはないが、曹操の気分を紛らわせる娘の存在がいるらしい。
しかいないと、何の根拠も抱かず凌統は決めつけていた。
彼女ならば、なんだかんだと文句をつけてこちらへ従軍していそうな気がしていた。
何にせよ、火計が成功した後に女の元へ向かえばすべてがわかる。
女がであれば、その時の理性の保ちようにもよるが話し合いを試みるつもりだった。




「・・・凌統殿、くれぐれも勝手な行動は慎んで下さいね。私はあなたが少し心配です」
「俺だってそれなりに修羅場は潜り抜けてきたんだよ。・・・大事な存在はもう死なせたくないんだよ。だから、殿には指一本触れさせない」
「・・・そう、ですよね。それから・・・・・・、もしも凌統殿の下に例の公主がいらしたら・・・・・・、私は味方になると思います」
「へぇ、そりゃありがたい。じゃ、何としてでもあの子をこっちに連れてこないと損ってもんだ」





 間違っていないのであればおそらく彼女は。
勝手に兵法の勉強を切り上げ外へ飛び出していた凌統を見つめ、陸遜は小さくため息をついた。




































 許昌で凌統から受け取った髪紐を一度胸に当て、邪魔にならないように編んだ髪に結びつける。
鏡越しに映る紅色は、の色素の薄い顔と艶やかな黒髪によく映えた。
戦場は兵たちのざわめきと熱気に溢れていた。
あの時とは違う。周到に準備を重ね万全の状態で、今まさに曹操軍は攻撃を仕掛けようとしていた。
すべてはこの日のために。
ここが、娘として、人として自由な時間を過ごせる最後の場所だった。
戦に勝利し凱旋を果たした後は、父との約束を守り縛られた生活を送ることになる。
悔いが残らない有意義なものにしたかった。




、支度は良いな?」
「はい。父上や将軍方の勇姿、そして勝利の瞬間をすべて目に焼き付ける所存でございます」
「そなたもやはりわしの娘じゃな。これより以後はそなたには構っておれん。ゆえに護衛をつけよう」




 要らないとは言えなかった。
父の気持ちはよくわかっていた。
仮に自分が父の立場であったとしても必ず護衛の兵はつけるだろう。
は現れた護衛の男を視界に入れ、目を見開いた。




「・・・父上、恐れながら考えを改められますよう。張遼殿は前線で戦って光る武勇の持ち主。たかが小娘1人の護衛に使うお力ではございません」
「張遼たっての望みなのだ。聞き届けてやれ」
「しかし・・・!」




 意味がわからなかった。
名を轟かせ功を上げる絶好の機会だというのに、それらを捨て武勇を持て余す張遼の真意を測りかねた。
は張遼を見上げた。
真っ直ぐこちらを見つめてくる彼の目と合い一瞬たじろぐ。
なぜ父は、彼のような猛将を護衛として認めたのだろうか。
父は一体何を考えているのだろうか。




「わたくしの心配は無用でございます。張遼殿の武勇は父のために奮われて下さい」
「公主をお守りすることも将としての立派な任であると思っております」
「いいえ違います。あなたは本当は他の将軍と同じように武を奮いたいはず。わたくしのわがままに張遼殿を巻き込むわけには参りません」




 一歩も譲ろうとしない張遼を扱いかね、はもう一度父の方へ向いた、
しかし既に出陣したのか父の姿はない。
おそらく父には、父なりの考えがあったのだろう。
その考えを明かしてくれないのならば、こちらにも考えはあった。
が武器を握り直すと、既に激しい戦闘が繰り広げられている前線へと足を向けた。
お下がりくださいと窘める張遼の言葉を数回無視し、5度目の諫止でようやく立ち止まる。




「お戻り下され、これより先は危険です。ここまで出てこられては、流れ矢も飛んでまいりましょう」
「張遼殿にお願い・・・いえ、命令がございます。聞いていただけますね」
「・・・・・・内容によります」
「ホウ統殿がどの辺りにいらっしゃるかご存知でしょうか。あの方を追っていただきたいのです」
「・・・ホウ統殿を?」




 怪訝な表情を浮かべた張遼には手早く説明した。
口から出まかせではないが、確たる証拠もなかった。
先日軍を訪れた孫権軍からの使者との接触をどうしても図りたくて出番を窺っていた時、ホウ統と使者の怪しげな会話を耳にしたのだ。
戦術に関する知識などなきに等しく、話の内容も聞き取りにくかったため理解不能の点もあったが、残りはあっしの出番だねと呟いていた言葉を確かには聞いていた。
何もなければいいが、何かあっては困る。
しかし戦闘直前で気分が高揚している父に水を差すようなことは言えない。
ましてや、確実なことでないならば尚更だった。





「わたくしの邪推かもしれません。けれども、何やら嫌な予感はするのです」
「・・・かしこまりました。ホウ統殿が悪しき事を企んでいるとあれば一大事。公主はこれより更に下がってお待ち下さい」
「承知しております。わたくしは・・・・・・、戦いに来たのではないのですから・・・」




 張遼が去りが後退し、戦線が膠着しつつあった時、急に風の流れが変わった。
熱を孕んだ突風に思わず屈み込み、再び立ち上がったの目に飛び込んできたのは、轟音を立てて燃え盛り焼け落ちる曹操軍の大船団だった。







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