月夜に恋して     7







 月という輝きしかなかったというのに、なんと明るい夜になったのだろう。
ほんの少し目を閉じていた間に様変わりした光景を前に、は動くことを忘れた。
長江が燃えている。
業火に巻き込まれ船という形を崩し、ただの木片となって水中に落ちた炎は、すぐには消えきらず水面を焦がすかのように燃えさかる。
炎の力に魅せられたのか、対岸からは真紅の戦袍に身を包んだ兵たちが雪崩れ込んでくる。
この炎では青き戦袍も青だとはわかるまい。
そこまで思い、はようやく状況を理解した。
のんびりと風景を詠んでいる場合ではなかった。
炎を上げ焼け落ちているのは曹操軍の船。
時を待っていたかのように突撃してくるのは孫権軍の兵たちだった。
なぜこのような事態に。
敵の策略にかかったということ以外、何もわからなかった。
幸いにしてここにはまだ炎も敵兵も迫ってきていないが、時間の問題だろう。
船同士を鎖で繋げているためか、燃え広がるのは早かった。




「・・・張遼殿は」




 ホウ統の様子を見てきてほしいと頼み送り出したが、彼はまだ帰還しない。
追っている途中で炎に行く手を阻まれてしまったのだろうか。
彼が率いる兵たちは皆精強だと聞くため、孫権軍に劣ることはないだろう。
曹操軍が誇る猛将を死なせてはならない。
ここへ戻ることができなくても構わない。
できることならば、真っ先に父を守ってほしい。
は武器を握り直すと深呼吸した。
戦の最初から最後まで高みの見物をしようとは思っていなかったが、こうも早く最終手段を使う時が来るとも考えていなかった。
前線の兵たちは踏み止まってくれるだろうか。
果たして無事に父の元まで後退できるだろうか。
一足先に到来した炎の波に、は覚悟を決めた。


































 怒りをどこへぶつければいいのかわからない。
張遼は役目を終えたホウ統と対峙しつつ、頭の隅で考えていた。
公主に頼まれホウ統を追いかけ、追い詰めたところで火の手が上がった。
上手くいったようだねと笑うホウ統を見て、彼女の予感が当たっていたと確信した。
ホウ統が憎い、偽装降伏を謀った黄蓋が憎い、そして、護衛の任に就きたいと自ら望んでおきながら炎の中にを1人置き去りにした己が憎かった。




「あっしを怪しいと睨んだのはさすがだねぇ。誰かの入れ知恵かい?」
「・・・・・・公主のお考えだ。我らを謀るとは許さぬ!」
「あの公主も不思議なお方だねぇ。油断しなくて正解だったよ」





 ホウ統はうっそりと笑うと杖を振りかざした。
視界を奪う眩い閃光を浴び、張遼の目の前が真っ白になる。
あんたには力勝負じゃ勝てないよと嘯く声が聞こえ周囲を見回すが、完全に目が戻った時には既にホウ統の姿はなかった。
逃げられてしまった。追いかければ見つかるかもしれない。
そう考え、すぐに思い止まった。
今は崩壊してしまった軍を立て直すことが急務だった。
火傷を負い傷ついた兵たちは、孫権軍に押され続けている。
戦場で戦う者もいるが、崩れゆくそこでは思うように戦うこともできないだろう。
賢い公主のことだ、おそらくは曹操の元へ戻っているだろう。
張遼はの聡明さに期待して、前線へと突入した。
防戦一方だった軍の士気がわずかに上がる。
早くここを片付けて公主の元へ馳せ参じねば。
張遼の繰り出す武器が威力を上げた。





























 陸地で曹操軍の猛攻を防いでいた凌統は、ようやく炎を吹き上げ始めた大船団を見て勢い良く敵兵の腹を蹴り飛ばした。
本陣が轟音を立て燃え始めたことに兵は動揺していた。
動揺は心を弱らせ、肉体の動くを鈍化させる。
押し返し、押し潰す絶好の機会だった。
手当たり次第に叩き伏せ、あるいは海に突き落とす。
船へと突撃していった味方の兵に続き、凌統も熱風渦巻く船内に足を踏み入れた。
全ての条件が揃えば敵に甚大な被害をもたらしますと諸葛亮が出陣前口にしていたが、確かに、目の前に広がる光景は凌統の予想の遥か上を行っていた。
長居をしていれば体中の水分が炎に食われてしまう。
本当に、この戦場のどこかにがいるのだろうか。
隈なく探すつもりではあったが、できれば生身の体の状態で見つけたかった。
時間が経てば経つほど、彼女が焼死体と化している可能性が高くなってくる。
の事は誰よりも愛しいと思っているが、死体を愛でる趣味は凌統は持ち合わせていなかった。





「し、死ねえ」
「あぁ? ちょうどいい、ちょっと俺の質問に答えてくれるかい?」





 半泣き状態で斬りかかってきた若い兵を、凌統はあっさりと捕まえた。
まずは彼女がいるかどうかの真偽を確かめておく必要がある。
ただ闇雲に探し回っても初めから彼女が従軍していないのであれば、とんだ骨折りなのだ。
凌統は無駄な労力を使うのが嫌いだった。




「は、離せ! お、俺を殺す気か!?」
「はいはい、後で海にでも突き落としてやるよ。なぁ・・・・・、この戦にお姫様って来てる?」
「姫君・・・?」




 兵はきょとんとした。
敵将の問いだというのに真面目に答えようとしているらしい。
やがて何か思い当たる節があったのか、ぽおと頬を赤らめた。




「き、貴様に教える義理はない!」
「あっそ。じゃあ他の奴とっ捕まえて訊くから、あんたは俺に殺られるってことで」
「ま、ままま待て! いる、1人いらっしゃる! 大層お美しい公主が!」
「ほんとに? 俺美人は見慣れてるけど、よっぽど綺麗なんだろうねぇ?」





 兵はがくがくと首を縦に振った。
忠誠心の欠片も無いこの兵は、先頃荊州の劉琮が降伏した際に曹操軍に組み入れられた荊州兵だろうか。
凌統が見聞きして知った曹操軍とは、絶対の忠誠心を持つ鉄壁の軍団だった。
少なくとも、己が命を永らえさせるために易々と敵の問いに屈するような男はいないはずだ。
凌統は何かに取り憑かれたようにべらべらと喋りだす兵を、冷ややかな目で見つめた。




「そ、曹操様に最も可愛がられているそうで、本当にお美しい方だ。俺はちらとしか見たことはないが・・・・・・、た、確か名は」

「そう、公主だ! ・・・・・・なぜ貴様が知って・・・」




 怪訝な表情を浮かべた兵を、凌統は無言で海に突き落とした。
こういう口が軽い男はどこの軍にいても厄介事しか引き起こさない。
国のためにも、消しておくことが一番望ましい。
死にはしないだろうが、収容されることもないだろう。
凌統は鎧の重みに戸惑い溺れかけている男に見向きもせず、別の船へと向かった。
に逢える。必ず探し出すからもう少しだけ持ち堪えてくれ。
凌統は降りかかる火の粉を払い除けると、天を仰ぎ愛しい女性の名を呼んだ。







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