Please take my hand, princess!     5







 今まで、どこに潜んでいたのだろうか。
孫権は突然目の前に現れ、猛然と突撃してきた張遼率いる騎馬隊に襲われていた。
呂蒙たち本隊と離れているため、救援を求めても時間がかかる。
孫権は散り散りになった軍を纏める暇さえ与えられず、ただただ攻め立てられていた。
逃げようにも、追っ手がすぐそこまで迫ってくるので逃げられない。
孫権は死を覚悟していた。





「孫権、貴様の命運もこれまでだ!」
「くっ・・・!」




 張遼の刃の先が孫権の首へと突き出される。
首筋をひゅうと冷たい風が撫でた直後、孫権と張遼の周囲で火の手が上がった。
凄まじい勢いで燃え始めた本陣に、更なる追撃の手を疑う。
お退き下さい孫権殿と凛とした声音で告げられ、孫権は思わず声の主を探した。




「孫権殿、ここはわたくしが引き受けます。孫権殿は一刻も早く、公績殿方と合流されますよう」
「お前は・・・! なぜここに・・・!」
「いてもたってもいられなくなり・・・。今はそのようなことは問題ではございません。さあ孫権殿、お早く・・・!」
「しかしお前はどうするのだ! まさかこのまま曹操の元へ帰るつもりなのか!」
「わたくしは、自らの意思で公績殿の元を去るということは考えておりません」





 は武器を構えるとくるりと炎の先を見つめた。
一時的に炎で張遼の行く手を阻み視界を遮ることに成功したが、炎もじきに消える。
迷っている時間はなかった。
は未だに困惑し動こうとしない孫権に背を向けたまま口を開いた。




「加減を間違えてしまったので多少焼け落ちているやもしれませんが、この先に橋がございます。それを渡りお逃げ下さい」
「・・・殿軍を引き受けるということか」
「多少の時間稼ぎはできましょう。・・・わたくしには、そうなりうるだけの要因がございます」
「・・・必ず生きて戻れ! 間違っても、あちらに帰るようなことにはなるな・・・」
「御意」





 孫権が馬を走らせ供の者と橋を渡ったことを確認すると、はすうと深呼吸した。
炎の先にいるのはあの張遼だ。
彼は自分を見て何と思うだろうか。
亡霊とでも思うかもしれない。
あるいは、気まぐれで不思議な、およそ公主とは思えなかった奇抜な娘の存在などとうに忘れてしまったか。
きっとそうだ、そうに決まっている。
炎の勢いが弱まり、張遼の姿が徐々に明らかになる。
火計の発動者を目にした張遼の目が驚きで大きく見開かれた。





「・・・あなた様は・・・・・・!」
「・・・・・・」
「公主・・・? 公主ではございますまいか・・・!?」
「・・・いかにも、わたくしの名は曹。そのような呼ばれ方をされていた頃もございました・・・」
「ご無事で、生きておられたのですね! 私のことは覚えておいでか、公主!」
「お懐かしゅうございます、張遼殿。あの時はご迷惑をおかけしてしまいました」






 以前見た時とまったく変わらない控えめな笑みを浮かべたに、張遼はたまらず手を差し出した。
死んだと、殺されたと思われていたが実は生きていて、かつ、連れ帰ることができれば国は盛り上がる。
敗戦の重い空気も吹き飛ぶ。
殿の元へ帰りましょうと極力優しく声をかけると、の顔から笑みが消える。
それどころか、2歩ほど下がり剣を正眼に構えた。





「・・・公主、どういうおつもりか?」
「ここから先は通しません。それが、今のわたくしのなすべきこと」
「孫権を、我らの敵を庇うおつもりか!?」
「今のわたくしにとって孫権殿は敵ではございません。守るべきお方、そう心得ております」
「何を仰る! 公主、私と共に殿の元へ帰りましょう。曹丕様も夏侯惇殿もお喜びになられる! 皆、私も含め公主の無事を祈っていたのですぞ!」
「わたくしは見ての通り無事です。ですが、帰るつもりはございません」





 思った通り、かなり時間は稼げているようだ。
真正面から力勝負で挑んで張遼に勝てるとは、は端から考えていなかった。
目くらましをして張遼の注意を引きつけ、その間に孫権をより遠くへ逃がす。
そうすることしかできなかった。
は張遼をひたと見据えた。
このままあともう少し、こちらに目を向けていてほしい。
張遼がこちらに執着すればするだけ孫権の生存確率が高まるのだ。
彼がいなくてはこの国は成り立たない。
凌統の平穏のためにも、はこの場を離れることはできなかった。





「・・・・・・どうやら孫権という男は、我らが思っていた以上に姑息な手を使う男らしい」
「え・・・?」
「公主を捕らえた挙句、自らの身に危険が及べば捨て石のごとく我らの前で押し出し、尻尾を巻いて逃げおおせる。おいたわしや公主、今すぐお救いしてみせましょうぞ」
「それは違い「この場は私に任せよ。そなたたちは孫権を追え」・・・」






 すべての部下に孫権の追撃を命じ、本陣に張遼ただ1人が残る。
しまった、こちらの狙いが読まれてしまったか。
はかつてない緊張感に身を引き締めた。
1対1で敵う相手ではない。
下手をすれば殺される。
張遼は身構えたとは逆に、双戟を地面に突き刺し丸腰になった。
そして、訝るに淡々と告げた。





「公主。あなたはあの戦の後、私の妻となるはずだった。ご存知か?」
「・・・そのような戯言」
「戯言ではござらん。私自ら殿に願い出たのです。公主を我が妻として迎えたいと。私はあなたを、公主を愛しているのです」




 死したと思われた後も、もちろん今も。
張遼の突然の告白を、は聞き流し損ねた。







分岐に戻る