Please take my hand, princess!     6







 あなたは、私の妻となるはずだった。
張遼の突然の告白に、のきりりと澄みきった表情がわずかに揺れた。
聞き流すべき何の根拠もない与太話だというのに、つい気にしてしまった。
なぜだかはわからない。
嘘だと思っているはずなのに、ばっさりと切って捨てることはできなかった。





「先の劉・孫連合軍との戦の後に公主を妻として迎えたいと、私は殿に申し上げました。そして殿もそれを諾とされた」
「そのような戯言に耳を貸すとお思いですか?」
「私がなぜ、あの戦の折公主の護衛についたのかまだおわかりにならないのですか。あれはあなたのお父上、曹操様のご命令だったとお忘れか」
「それは・・・・・・」
公主、あなたはとても聡明なお方だ。私はそこに惹かれ、姫君を妻に迎えることを許していただけるのであればと公主を選びました。私は公主を愛しているのです、今でもなお」
「わたくしは、」





 張遼のことは、今も昔も勇猛果敢な将としか思っていない。
恋情を抱いたことなどもちろん一度もない。
赤壁での戦いで彼が護衛についた時も、また、許昌でも、彼のことは少し口うるさい頼もしい男としか見ていなかった。
世間知らずのわがままな小娘のお守りをさせられて哀れだとすら感じていた。
そして愛どころか、張遼はこちらを嫌っているとばかり思っていた。
彼は自分のことを聡明だと評してくれたが、自身は特段知恵を使った覚えはなかった。
どちらかといえば、感情に任せて行動する直情派だと思っていた。





「無論、公主が私のことをどうとも思っておられないことなどわかっております。しかしこうしてお会いした以上、私は公主を殿の元へとお連れしたい」
「それがわたくしの望まぬことであったとしても、ということでしょうか」
「公主はなにゆえ孫権軍に与しているのですか。あなたは公主、曹操様のご息女であられる!」
「わたくしは! ・・・わたくしは曹孟徳が娘ですが、公主である前に1人の女なのです。
 公主としてのわたくしではなく、わたくしそのものを必要として下さる方がここにはいらっしゃるのです!」
「なんと・・・・・・」
「張遼殿が私を好ましいと思って下されたのは、それが私が公主という立場にあったからです。
 わたくしが公主でもなんでもないただの名もなき小娘であれば、おそらく見向きもなさいますまい」







 公主だからだ。
という人間そのものに惹かれたのではなく、公主であり主君の娘という磐石な地位に惹かれたからだ。
は剣を構え張遼を見据えた。





「今のわたくしは、大切な方々を守るための刃であり盾。孫権殿や将軍方の退路が確保されるまでは、ここを離れるつもりは毛頭ございません」
「・・・何度説いても無駄なようですな・・・。ならば、力ずくにでもあなたを連れ帰る!」





 双鉞を手に取った張遼が猛然とこちらへ向かってくる。
力も武芸も経験も、すべてにおいて劣っているこちらに勝機はない。
だが、今回は勝たなくていいのだ。
死なずに時間を稼げればそれでいいのだ。
迫りくる双鉞の太刀筋を辛うじて読み身を捩ったは、素早く間合いを取ると次なる攻撃に備えるべく再び身構えた。
空気を切り裂く重い一撃は、掠っただけでも致命傷に至りそうで全身にかつてないほどの緊張が走る。
そう長くは保たないと、はこの戦いの結末を予想した。





「腕を上げられましたな、公主」
「ありがとうございます」
「されど、公主はまだお若い」
「え・・・?」





 真正面から両の鉞を振り下ろされ、避けることを諦め剣で受け止める。
重みに手が震え、足が震える。
突如として襲ってきた全身を貫く衝撃に耐え切れず、思わず後退する。
不安定に揺れていた足が張遼に掬われ、後ろに倒れたは地面にしたたかに背中を打ちつけた。
咄嗟に起き上がろうとするが、顔の両側に鉞を突き立てられてしまっては動くことすら叶わない。
万事休す、殺される。
はその時を覚悟した。




「・・・かように弱く儚い公主に殿軍を任せるなど、虎は狗であったのか」
「何を・・・・・・」
「時間稼ぎをなさりたいのであれば、私も今回だけは公主に従いましょう。私でなくとも、孫権ごときの首は部下が取りましょう。
 公主、あなたには、私以外のものとなれぬようにさせていただく」





 張遼の大きく無骨な手がの首をつかむ。
絞め殺されると観念し目を閉じたの耳に、するすると衣を剥ぐ衣擦れの音が飛び込んできた。































 凌統は辛くも逃げ延びてきた孫権からが危ないと聞き、荒れ果てた大地を駆けていた。
案の定、は本陣もろとも何の躊躇いもなく火の海にしたらしい。
しかし火加減を間違ったのか初めからそのつもりだったのか、あろうことか自らの退路まで炎で塞いでしまったという。
妙なところで肝が据わっているのことだから、おそらく後者を見越しての火の海地獄だったのだろう。
らしいと感心した凌統は、次いで告げられた張遼の奇襲という言葉にいても経ってもいられなくなった。
あの張遼にが敵うはずがない。
下手をすれば生け捕りにされて向こうに連れ戻される。
せっかくここに連れて来てようやく落ち着いた生活を送ることができるようになったのに、これではあまりにも酷い。
凌統は救出のため馬を走らせていた。





「・・・やっぱり一緒に行けば良かった」





 大丈夫ですと笑みすら浮かべて言っていたの言葉を信じきっていた。
初めからどこも大丈夫ではなかったのだ。
が1人きりで戦場にて何かが好転した験しなど、一度もなかった。
許昌では自分と逢い、赤壁では味方に襲われと、単独行動時のほど危難を背負いやすい存在は他になかった。
そうだとわかっていたのに1人にさせ、また危険に遭わせている。
もしも連れ戻されたら、おそらくはもう二度ととは逢えなくなるという現実に打ちのめされ再起不能になる。
それだけは嫌だ。
と一緒に帰るんだ。
凌統は、燃えて灰と炭だらけになった孫権軍本陣へと突入した。







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