Please take my hand, princess!     9







 帰って来たらそれはもう痛烈に叱られるとばかり思っていたが、家主の気が変わったのか未だにお叱りはない。
彼なりに気を遣ってくれているのだろうか。
いつもずけずけと物を言ってくる果てしなく遠戚の家主に、そんな細やかな心配りができるとは思わなかった。
本当は、気を遣わせるようなことは何もされていないのに、ただ少し男の劣情に翻弄されただけなのに、この家主はもっと酷い目に遭ったと思い込んでいる。
心遣いは嬉しいが、正直なところ重かった。





「おや、もう起き出していいんですか? ・・・まだ、ゆっくりしておいてもいいんですよ?」
「いえ、大事ありませんゆえ。このように怪我もしておりません」
「怪我って殿、あなた・・・」
「陸遜殿、それよりも」





 は陸遜へと身体を向けると、真っ直ぐと見つめた。
直視されることが辛いのか、珍しくも陸遜の目が泳いでいる。
やはり彼は何か勘違いをしているようだ。
は小さく息を吐くと、ゆっくりと口を開いた。





「凌統殿はご無事なのでしょうか」
「どんな無茶をなさったのか脇腹に大きな傷を負ったそうですが、安静にしていれば治るとのことです」
「・・・わたくしのせいなのです、わたくしのせいで凌統殿は」
「だから行くなと言ったんです。あなたが行っても誰も幸せにはなれやしない。凌統殿も曹魏の将も、もちろん殿も心や身体に大きな傷をつくりました」
「・・・・・・」
殿、しばらく凌統殿の元で看病なさったらいかがでしょう。あのような事があった後で顔は合わせにくいかもしれませんが、いずれにせよお2人は話し合うべきだと思います」





 合肥から逃げるように撤退してきた凌統とを見た時、陸遜はにかけるべき叱責の言葉も忘れ立ち竦んでいた。
何が起こったのか憔悴しきり、ぐったりとしたまま動かないを屋敷へ連れ帰ってからは久々に医者を呼んでまともな治療に当たらせた。
を守ってやれなかったと自身を責め続ける凌統からなんとか事のあらましを聞き出してからは、にどう接すればいいのかわからなくなった。
外傷は見受けられなくても、本当はとても傷ついているという。
愛する人がいるというのに、乱暴をされたという。
それも、よりにもよって公主時代に本人が知らぬところで交わされていた約定とはいえ、夫となるはずだった許婚の手によって虐げられたという。
なぜそのようなことになったのだろう。
確かには苛烈な性格をしているが、線の細い華奢で可憐な娘だ。
殿は上品で淑やかで聡明で、そして美しいと称える文官たちも多い。
凌統でなくても、劣情に苛まれることはあると思う。
しかしはあれでも曹操の娘、れっきとした公主なのだ。
主君の娘と知っていて狼藉を働く将軍などいるだろうか。
しかも、このまま連れ帰れば間違いなく自身の妻として迎えることができたに、あえて嫌われ怖がられるようなことをしただろうか。
追いすがる凌統は葬っても、の身は守るはずだ。
陸遜は魏将の真意がつかみきれなかった。
軍師としてもまだまだだと痛感させられた。






「・・・凌統殿にお会いするのが恐ろしいと思ってしまうのです・・・」
「凌統殿は気にされないと思いますが」
「張遼殿に・・・、敵わない相手に身体を許してしまったわたくしを汚らわしいとお思いではないでしょうか」
「どんな殿でも愛しているから、殿をまた連れ帰ったのではありませんか?」
「わたくしは・・・・・・、公績殿に会わせる顔がございません・・・」
殿・・・・・・」





 消えてなくなりたい、今すぐ長江に身を沈めてしまいたいと思い何度川辺に足を運んだことだろう。
張遼に襲われたのは紛れもない事実だ。
生まれてこの方、あの時ほど人を怖いと思ったことはなかった。
頭の中が真っ白になった。
操は守られたが、凌統はそうは思っていないであろうということがもっと怖かった。
凌統は守ってくれたのだ。
凌統ができうる最大限の守りは果たしてくれたのだ。
守れなかったのは、襲われたのは単純に自身が弱かったからだ。
そうだというのに、心優しい凌統が彼自身を責めていることが辛くてたまらなかった。
凌統は何も悪くない、悪いのはすべてこちらだ。






「やはりあなた、かなり疲れていますね。小うるさい家主の元からとっとと出て行って、早く凌統殿の元へ行きなさい」
「ですが・・・!」
「でももだってもありません! そんな辛気臭い顔をされてここにいられると、私まで気が滅入ってしまいます。邪魔です、いなくなって下さい」






 ぐいぐいと執務室から押し出され、は途方に暮れた。
ああまで邪険に扱うことはないと思う。
誰が毎日夕食の支度をしていると思っているのだ。
誰がおやつの肉まんを差し入れしていると思っているのだ。
は酷いと小さく呟くと、重い足取りで凌統の屋敷へと向かった。
やはり、この土地には人がさほどいないのだろうか。
凌統の屋敷も人気があまり感じられず、寂しい気分になる。
いつぞや訪ねた甘寧とその子分たちの賑々しい屋敷とは大違いだ。
どうしよう、とてつもなく入りにくい。
屋敷の前でまごついていると、こちらに気付いたらしい庭の下男があっと声をかけた。






「あなた様は確か旦那様の・・・」
「曹と、申します」
「やはりそうですか! あなたを見かけたら首根っこつかんででも連れて来いと仰っておいででして!」
「首根っこを・・・」
「そうまでしたくなるくらいにお逢いしたかったんじゃないでしょうかね。旦那様の話によると、その方はとんでもなくつれないお方だそうで!」





 本人の前でなかなか辛辣な発言を繰り返す下男に苦笑を浮かべ、案内されるままに寝所へと向かう。
まずは何を言えばいいだろうか。
ごめんなさい。それとも、申し訳ありませんでしたか。
何を言っても薄っぺらな上辺だけの言葉になってしまいそうで怖い。
不安と緊張に押し潰されそうな思いで顔を上げたは、寝転がりながら書物を流し読みし寛いでいる凌統を見つめ声を失った。







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