理由はない、逝きたいだけ




 ほんの少しからかっただけなのに、随分と嫌われたものだ。
いや、元々嫌われていたから今日のこれも以前からの延長線か。
愛してやまない元部下にして現在は妻の座に収まっているが頭突きを残して遁走してから、帰って来ない。
そのうち戻ってくるだろう、戻ってきたら冷やした手拭いなんかで甲斐甲斐しく世話をして腫れた頭を撫でてくれるはずだ。
そう見込んで逃げられたままどっしりと構えていたのだが、一向に戻らない。
それほどまでに腹を立てるとは思わなかった。
年若い頃からこちらを仇と認識し命を狙っていただ。
命を奪うことを諦めた今はこうして仲睦まじい夫婦としての関係を築きつつあるが、仇だった頃の出来事は彼女にとっては思い出したくない過去だったのだろうか。
それは困る。
仇敵としての自身の地位を確立していなければ、との縁は極めて浅いものになってしまう。
だから言ってみたのだが、結果は頭突きと足蹴だ。
おまけに噂の要塞へ逃げ込まれた。
数少なくなったとはいえ、まだまだ健在の保護者代わりの元に転がり込まれた。
曹仁の邸と並んで苦手とする場所だ。
そのあたりの相性も踏まえて逃げたのであればはかなりの策士だ。
さすがは我が妻、愛おしい。




「というわけで嫁さんを返してほしいんだが」
「返すも何も、も子どもじゃあるまいし帰りたくなれば賈ク殿の元に戻るさ」
「いつまでもいい子だえらい子だとを散々子ども扱いしている満寵殿に言われたくはないんだが」
「私にとってははいつまでも子どもだよ。先程も元気な声が聞こえていたけど、賈ク殿の元にいたんだからまさか迂闊に壁に触れて罠を作動させたりはしていないはず。柵と岩の危険は伝えているし」
「柵」
「おっと、多くは言えないな。はこの先にいるよ。でも私としては、がなぜここに逃げ込むに至ったのかの経緯をまずは知りたいな。そうでないとはまたここに逃げ込んでしまうだろう」



 泣かせるようなことはしていないよね。
手を上げるようなことはしていないよね。
悲しませるようなことをしていないよね。
そうひとつひとつ尋ねてくる同僚の目はいつもの好奇心に満ちた輝きではなく、返答次第では討たれかねない不穏な光で煌めいている。
泣かせてはいない、啼いてはいたが。
手酷くしたつもりもない、少なくとも最前までは悦んでいたはずだ。
ではなぜはここへ来たんだい?
とどめの問いかけを受けた賈クは、ぐうと押し黙った。
ある程度の予測はしていたが、のこととなると皆真剣だ。
実はまだ信頼されていないのではと疑ってしまうほどに、周囲が兎にも角にもを大切にしすぎている。
先日はとどんな縁があるのか、魏帝曹丕にまで「は息災か」と訊かれてしまった。
畏れ多いと思いながらも妻との関係を尋ねると妙な含み笑いをされた。
道理で一途なまでの仇討ち願望が黙認されていたわけだ、殺されなくて良かった。
そう、まさにそう言ったらは逃げたのだが。



「満寵殿には悪いがこれ以上は夫婦の込み入った話になる、勘弁してほしい」
「それはそうかもしれないけど、元はといえば君の奥方が私を頼って逃げ込んできて、今の私は込み入った中に分け入っているんだ。些末な理由で逃げたのなら、私もを叱らなければならない」
「・・・に、今のあんたなら俺を腹上死させられるかもしれない、と言った」
「へえ、それで?」
「頭突きを一発、足蹴を2発、いや3発だったか? 相変わらずの健脚だ、止める間もなく逃げられた。あの女に余韻を味わう情緒はないのか?」
「そういうのは郭嘉殿の領分だったから私は何も。陛下はどうだかわからないけど」
「陛下」
「ああでも、狼藉を働く不逞の輩は伸せという曹操殿以下主だった人々からの言いつけは今でも守っているようで何より」
「俺はの夫なんだが。いや、それよりも今」
は生き死にに関わる冗談は一切受け付けないし、それは夫だろうが恋人だろうが変わらないはずだよ。困ったな、これではを引き渡せない」



 私が許昌にいる間は養ってあげられるけど、異動が決まったら連れて行けば引き渡さずに済むかな?
どうやら満寵の中では既に裁定が出たらしい。
それは困る、非常に困る。
この男は本当にごと要塞を引き払いかねない。
奪還がより困難になる前に、なんとしてでも迎えに出向かねば。
訊かなければならなければならないことがたくさん増えた気もするし。
賈クは満寵を押しのけると、要塞へ飛び込んだ。




若気の至りと供述しており



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