テドン 7
バースは、自らの発した呪文を受け倒れ伏したエルファを見下ろした。
これでいい、長い目で見れば間違った選択でなかったとわかるはずだ。
わかってほしいという、ただの願望なのかもしれない。
それでも良かった。
禁忌の呪文をなぜ教えたと、そう詰ればいいだけの話だった。
「・・・我が名はバース、加護を受けし者なり。我を異なる空間へと誘いたまえ」
異空間を生み出すのは苦手だった。
必要だと思ったこともないため修業に打ち込まず、苦手意識が更に増長したとも言える。
こんなことになるんだったら、もっと真面目に勉強しとくべきだったな。
バースは自嘲すると、エルファにそっと触れた。
これから彼女は長い眠りに就くことになるだろう。
できれば今日の悲劇を、ネクロゴンドの日々も忘れてしまうくらいに幸せな夢を見てほしかった。
都合のいい願望だということはわかっている。
それでもバースは、己が幸福を失くしてでも彼女には幸せになってほしかった。
バースは血がこびり付いたエルファの顔を優しく拭うと、彼女の周りに魔法陣を描いた。
呪文構成は覚えている。力を置くべきポイントもわかっている。
これを発動するに充分な魔力も残っている。
問題は、技量と相性だった。
空間を操る力に長けていない身でこの術を使うのは難しいのではないかと、心の隅で感じていた。
しかし今は、不安を感じている場合ではないことも明らかだった。
何が何でも成功させなければエルファの未来はないのだ。
彼女の未来を拓くと決めたではないか。
今更何を立ち止まっているんだ。
お前はできる、守る力が賢者には与えられているのだ―――――。
バースは杖を強く握り直すと、そのまま魔法陣の中心に突き立てた。
魔法陣が淡い光を発し、エルファが僅かに宙に浮く。
バースは急激な魔力の消耗に悲鳴を上げる体を叱咤すると、精神を集中させ呪文を唱え始めた。
「閉ざされし空間の扉よ、今ここに我が願いを聞き入れよ・・・。幾多の時を越え再び、変わることなき姿でこの大地に戻したまえ・・・・・・」
眩い光に包まれたエルファを見た時、バースは術の成功を確信した。
何が禁忌だ、魔力の消費に耐えさえすれば案外簡単に成功するものではないか。
安心感からふっと力を抜いたバースは、次の瞬間目の当たりにした呪文の変貌に体を震わせた。
魔法陣が真っ赤に光り、ぴしりと嫌な音を立て生み出した空間の殻にひびが入る。
バースが作り出したい空間と、これからエルファが行く予定の世界。
そして、廃墟と化したネクロゴンド。
交わるはずのない3つの空間が合わさったことで、バースは事の重大さを悟った。
これからどんな手を施せばネクロゴンドと隔離できるのだろう。
全力で作った空間の壁を破られてしまったが、これに勝る強靭な壁を多くの魔力を使った今、再び作れるというのだろうか。
頼む、エルファだけは無事でいてくれ。
何も手を打つことができず、祈ることしかできないバースの脇を突風が吹き抜けた。
ただの突風でないことはすぐにわかった。
エルファの心から出てきた、彼女という人を構成する最も大切な部分―――、記憶だった。
風となり吹き飛んだ記憶は、ネクロゴンドの世界へと抜け出てしまう。
バースは痛む頭を押さえエルファを見つめた。
形を失くし光の粒となった彼女が怖かった。
彼女がこれから向かう先は、本当に別の空間なのだろうか。
このまま死んでしまうのではないだろうか。
そういえば、彼女はどこへ飛ばされるというのだろう。
調べようと思い慌てて杖を手に取ったが、杖は何も反応してくれない。
呪文を唱えても何も起こらない。
まさか――――――。
バースの体から力が抜けた。
禁忌が禁忌たる呪文であると呼ばれているものの、それを禁忌だと言わしめる実証がない理由を身をもって知った。
初めから、呪文を唱えた時から何もできなかったのだ。
口にすることすら禁じられている呪文だったのだ。
定められた空間でしか生きられない人間を、欲にまみれた都合で動かすことなど、たとえ賢者と呼ばれる存在であっても許されることではなかったのだ。
「エルファ・・・・・・、俺ってほんと、どうしようもない馬鹿だよ・・・・・・」
それでも君を愛しているんだ。
薄れゆく意識の中、バースは光が完全に消えるのを見届けた。
人の願いが届くことはないとわかっている。
わかっていても願わずにはいられなかった。
諦めることはエルファに対して、最も顔向けできないことだった。
また、会いたい。
エルファを呟き、バースはひんやりとした暗闇の中、静かに崩れ落ちた。
頬が濡れている。
雨なんて降っていなかったというのに、おかしな事もあるものだ。
リグは頬に触れ、流れる雫が涙だと知った。
いつから涙を流していたのだろう。
エルファが死罪と言われた時か、ネクロゴンドが襲われた時か、それともバースとエルファが別れた時か。
いつでも良かった。
エルファもバースも、失われた20年間を何もできず生きていた。
20年がどれだけ長い時間なのか、リグには想像することもできなかった。
覚えていないにしても、それはそれで悲しいことだ。
リグはバースとエルファを見つめた。
視線を一切合わせようとしない2人を見ていると、胸が痛くなる。
良くも悪くも、全ては母の出奔から始まった事件なのだ。
他人事とは思えなかった。
「結局俺は何もできなくて・・・・・・。何もできないまままたエルファと会って、エルファを辛い目に遭わせただけなんだよ・・・・・・」
「ちがっ・・・、バース、私は・・・っ!」
「何も、言わないでくれ・・・・・・。俺は過去しか見ることができない・・・・・・。だから、先に進むのは怖い・・・・・・。・・・ごめん」
「バース!!」
エルファはバースの名を叫び彼を見上げた。
しかしバースはエルファから視線を逸らすと、そのままリグたちに背を向けた。
声をかけることが躊躇われる中、エルファはバースの背に必死に呼びかけた。
悲鳴のような、哀願のような叫びを聞き、ライムは口元を押さえた。
「バース、バース、やめて、どこにも行かないで・・・・・・!」
「・・・・・・」
「やっと逢えたのに・・・・・・っ、お願い、私を置いてかないで・・・・・・」
「・・・・・・エルファはもう、1人じゃないだろ・・・・・・」
「バース!!」
バースの体がルーラの光に包まれる。
エルファの叫びが泣き声になる。
震える手でバースのマントを掴もうとした直前消えた光に、エルファは立ち竦んだ。
宙に浮いた手は落ち着く先を見つけられず震えたままだ。
たまらずライムがエルファの肩を抱こうと動いた瞬間、エルファはその場に崩れ落ちた。
「・・・・・・あの馬鹿、ほんと、真性の馬鹿だ・・・・・・」
テドンの長い夜が明けつつあった。
「・・・人は愚かだ」
生ある者全ての命を奪い一夜のうちに魔物の居城となったかつての大国にできた空間の歪みには、すぐに気付いた。
空間の向こうで何があったのか、それなりには強固な壁に空いた穴を見て不審に思う。
こちらの世界に来ていることは知っていたが、よりにもよってここにいたのか。
折を見て逃げ出せば良かったというのに苦手としている異空間まで作ったとは、よほどの事情があったのだろう。
事情が何かは、知りたいとも思わなかったが。
「・・・これ、は」
しんと静まり返った暗闇の空間の眉を潜める。
何があった、何をした、何をやってしまったのだ、あいつは。
魔力の炎を灯し周囲を隈なく見渡す。
足元に書き綴られた魔法陣と地面に横たわる青年を見つめ、絶句した。
魔法陣には見覚えがあった。
なぜこいつが使っているのだと、まず思った。
禁忌に手を出すほどには非行に走っていないと思っていたが、思い違いだったのか。
ぴくりとも動かない体は冷たかった。
魔力という魔力を奪われてしまったのか、普段からはこれでもかというほどに感じる生意気な力はどこにもない。
もしやと思いサークレットの宝玉に手を伸ばす。
力と加護の源たるそこからは、いつもの柔らかな温もりは感じなかった。
賢者としての力も奪われてしまったのか、彼は。
本当に、なぜ彼は禁忌に触れてしまったのだろうか。
過去を探ることはできないこの身ではすぐにはわからなかった。
「・・・・・・賢者も落ちたと言うべきか・・・・・・。いずれはここも見つかるだろうに、死ぬ気か」
試しに体を揺さぶってみるが、目を覚ます気配はない。
まるで死んでいるようだ。
死と思い、表情が険しくなる。
いけ好かない相手にはなったが、死ねばいいと思ったことはなかった。
彼の身に何があったのかはそれなりに気になってきたが、それはここでは調べられない。
ただ使った呪文が呪文である以上、きっと彼は誰かを生かしたかったのだろう。
「人は愚かだ。一時の感情で動き、そして己が身を滅ぼす。・・・・・・私も・・・、僕も、充分愚かな者なのだろうな、まだ」
ぐったりとしている体を抱きかかえ暗闇から脱出する。
やっぱりお前は陽の下にいる方が似合ってる。
誰に聞かせるでもなくそう呟くと、バシルーラを唱えた。
「願わくば、彼に僕の所業が気付かれぬことを」
遠くから魔物たちの地鳴りのような足音が聞こえる。
プローズは壊れ果てた異空間を閉じると、黒いローブに身を包んだ。