11.霧と共に去りぬ
怒りと悔しさではらわたが煮えくり返りそうだ。
ドブネズミ風情が、いったいいつの間にに手を付けていた。
ゴミ溜めのような地獄からをすくい上げてから今日まで、どんな思いで育ててきたのかぽっと出のドブネズミにはわかるまい。
残飯どころか木の根の味しかろくに知らなかった娘の人並みの生活を教え、自らにまったく頓着せずなすがままに蹂躙されていたボロ切れのような体に人間らしい温もりを与えた。
ようやくだ。ようやくまともに生き始めることができたのに、どうして彼女の周りにはネズミが湧くのだ。
駆除が足りなかったのか。
遠征で長く国を離れる時も周囲にそれとなく身辺を守らせていたのに、何が彼女をおびき寄せるのだ。
誰がを暗い世界へと誘うのだ。
ホメロスはのろのろと見慣れぬナイフを自身に突き出してきたを見つめ、口元をわずかに緩めた。
その手で何かを守れるほど、あるいは奪えるほど彼女はまだ完全に育ちきっていないのに滑稽だ。
「、何をしている」
「将軍とお話がしたくて」
「話なら後でいくらでも聞こう。そこを退け、私の仕事の邪魔をするな」
「邪魔をしてでも聞いてほしいお話なんですけど」
「、確かにお前は聞き分けはあまり良くないが、今がそういう状況ではないことくらいはわかるな? わかれば今すぐナイフを捨てろ、そんなものをお前が持つ必要はない」
努めて優しく言ってやっているのが逆効果なのか、はたまた本当に状況を理解しようとしないのか、ナイフはの手に収まったままだ。
彼女の背後には、まるでに庇ってもらっているかのごとく悪魔の子たちがいる。
が何をしようとしているのかはもはや明らかだ。
我が身を盾に時間稼ぎをしようとしている。
せっかく貯め込んだ命を削るような真似までして、世界の敵を守ろうとしている。
思い返せば少しずつおかしかった。
いくら散歩好きだろうと、デルカダールに連れてきて数年経った今になって突然ナプガーナ密林に行くわけがなかった。
理由なく店を空ければ空けた時間の倍は嫌な説教が待っているとわかっていてもなお、朝帰りを決め込むほど見境のない娘でもなかった。
あの時からだ。
自らを勇者と名乗るあの忌々しいくそがきたちは、牢から逃げたその日のうちにを拐し危険な地へと連れ歩いていたのだ。
かわいそうに、おそらくはあれらに上手く言いくるめられ都合良く騙されていたのだろう。
あんな連中と出会ってしまったから、は大ガラスに怪我をさせられるに至ったのだ。
戦い方を知らない彼女には酷な仕打ちだ。
そんな非力な彼女に庇わせているたちを今すぐ切り刻んでやりたい。
「ちゃん、一緒に逃げよう」
「へ? なんで? 無理に決まってるでしょ、勇者様私のどこ見てナンパしてるの」
「この人と一緒にいちゃ駄目だ。やっぱり一緒に行こう」
「そんなこと言われても、無理って言ってんじゃん」
「無理ってことは、無茶すればできるってことだろ? なぁ!?」
「えっいやそれはどうかなあ・・・?」
背中越しにやんやと語りかけられ、前方への注意が疎かになる。
ここ数年で一番油断をしてはいけない時間だというのに、なぜもカミュも余計な茶々を入れてくるのだ。
たちは知らないのだ、ホメロスの執念深さを。
自惚れでも何でもない。
地獄から拾い上げたどこにでもいる薄汚い小娘をずっと傍に置き続けるようなホメロスが、彼自らの意思で小娘もといこの様を手放すわけがないのだ。
「勇者様との一泊二日の大冒険はすごく楽しかった。キャンプで食べたご飯の味も、女神像に祈ったことも全部覚えてる。忘れないと思う、思い出だから。
カミュともまた会えてよかった、元気そうにしてるってわかっただけでもう充分。これからも元気でいてほしい。ずっとずっと、私の思い出を綺麗なままでいさせてほしい」
「・・・。お前はまたそうやって俺の前からいなくなるのか? やり直そう、今度はオレだけじゃない、もいる。ベロニカやセーニャ、シルビアもいる。
みんないい奴らだ、誰もを傷つけない」
「愚かな奴め。今まさにを責め立てていると気付かんとはな!」
「ひゃ・・・!」
今生の別れと思い寛容にも黙って聞いていれば、あまりにも身勝手が過ぎる。
は拒絶しているのに、なぜなおも食い下がるのだ。
は自分のものだ、遅かれ早かれ誅滅させられる連中にくれてやっていいものではない。
ホメロスはの震える手を叩くと、ナイフを海へと蹴り飛ばした。
よほど愛着があったのか、海めがけて走り出すの襟首をつかみ地面へ押し座らせる。
離してと暴れ嫌がるを強い口調で呼び咎めると、が猛然とした表情でこちらを見仰ぐ。
いつものへらりとした顔とは違い、明らかに敵意を剥き出しにしている。
たかがナイフ一本くらいで何を大げさな。
誰に反抗しているのか今一度説いて聞かせなければ。
そう帰国後の処遇について考えていたホメロスは、突如周囲に湧いた霧と砲声に眉を潜めた。
地形的に、ダーハルーネが霧に覆われるのは今の時間帯ではありえない。
軍艦が寄港するという情報もなければ、指示も出していない。
ホメロスは霧の中から聞こえたと呼ぶ叫び声に、手元のを顧みた。
大丈夫だ、手には馴染みの温もりがある。
突発的な事象に乗じの奪還を試みたのかもしれないが、その手に乗るような新兵ではない。
霧が晴れ、辺りの視界が戻る。
目の前で配下たちが取り囲んでいた悪魔の子一行がいない。
海上にはぽつんと優雅な船が浮かんでいて、そこには複数の人影が見える。
あれはまさか。
目を眇め線上の人物を確認しようとしたホメロスは、部下の情けない悲鳴に思考と行動を遮られた。
「ホ、ホメロス様! が、あいつがいません!」
「なに・・・? しかし先程までこの手に・・・」
「将軍さんよう、オレの本職を忘れたとは言わせねぇよ。オレは盗賊、宝のひとりやふたりくらいわけないぜ!」
「貴様! に何をした!」
「は渡さない。は返してもらう。今更罪状がひとつ増えたくらいどうってことないぜ」
「きゃ~カミュちゃん素敵よお~! ささアリスちゃん、すぐに出港よ!」
波しぶきを上げみるみるうちに遠ざかる船を、為す術なく見送る。
霧の中感じた手中の温もりは、ぬくぬくと暖められたスイーツだったらしい。
悪魔の子を取り逃がしたばかりか、人質とばかりにまで奪われてしまった。
何もかもが許せない。
いけ好かない気障な脱獄囚も、無様にを奪われた自分自身にも腹が立つ。
あのナイフは、にとってそれほど大切なものだったのだろうか。
過去に与えてきた数々の品よりも、切れ味も悪そうな粗忽なつくりのナイフが大切だったのだろうか。
だとしたら、決めた。
あれで悪魔の子やその一党を屠ってやる。
ホメロスは岸壁を見下ろした。
今にも波に浚われそうな岩の影が、きらりと輝いた。
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