さすがは現役で人攫いまでやってのける凄腕の盗賊だ、逃げ足は誰よりも早い。
戦いどころか体を動かす行動が苦手な一般人を連れている時くらい周囲の状況に忖度してくれてもいいと思うのだが、人間生きていくうちで最も大切なのはおそらく命だ。
人間の本能に忠実に従って生きているカミュを責める理由はどこにもない。
たとえ土砂降りの中、土地勘のまったくない四方敵だらけの林に置き去りにされても、だ。
「いや、やっぱり無理なやつじゃん、これ」
は止まない雨を流し続ける暗闇を仰ぎ見て、ぽつりと呟いた。
雨が冷たい。
グロッタで新調したばかりの靴は泥に塗れ、服も枝に傷つけられたのか破けている気がする。
デルカダール兵たちの声は聞こえなくなったので、ひとまず姿をくらませることには成功したらしい。
たちは無事だろうか。
グレイグはホメロス以上に腕が立つ。
武闘会で優勝しただが、相手は殿堂入りだか何だか知らないが胸像まで仕立ててもらえる勝者オブ勝者のグレイグだ。
1対1の勝負ならば、は後れを取るかもしれない。
あくまでド素人の意見だが。
「うう、ベロニカぁ、セーニャぁ、シルビアぁ、カミュに置いてかれちゃったよー・・・」
泣き言を聞きつけたお姉様たちが駆けつけてくれるかと奇跡を信じてみたが、やはり奇跡は安売りしていない。
雨音だけが返事をして、はううと呻き声を上げた。
デルカダール下層でひなたの道に仁王立ちしていたので、危害を加えようとする良からぬ輩から身を隠しながら合流する方法など知るはずがない。
無理だ、何をすればいいのかすらわからない。
とりあえずなんでもいいので人に会いたい、せめて廃墟からさよならして麓の女神像に戻りたい。
そして女神像に祈るのだ、カミュたちに会わせて、と。
はよろよろと立ち上がると、獣道を下り始めた。
悪魔の子一行はしぶとい連中のようだ。
グレイグは、方々に散らばった悪魔の子たちの各個撃破すら発生できない状況に眉をしかめた。
数をもってして追い詰めることができるほど、相手も単純ではないということだ。
グレイグは荒廃した大地に似つかわしくない花畑の真ん中で眠っていた兵を叩き起こすと、何があったと詰問した。
「も、申し訳ありません! そ、その、例の盗賊を発見したのですが・・・」
「盗賊ひとりか? どこへ行った」
「いえ、そ、それが・・・。が出てきて、追いすがろうとしたら急に眠気が・・・。どっどうしましょう! ホメロス様に何とご報告すれば!」
「・・・あの子は悪魔の子に脅されているのかもしれない。行け」
「やっぱり・・・」
自分で口にした言葉に、これほど違和感を覚えることもそうない。
やはり、は自らの意思で悪魔の子たちに。
グレイグは花畑にしゃがみ込むと、ふと足元を見下ろした。
とても懐かしい、遠い記憶の中で咲いていた花が生きている。
美と芸術の都バンデルフォンの国の民がこぞって愛し育んでいた可憐なそれが、目の前で生きている。
この花壇はが作ったのだ、すごいだろうグレイグ!
いつだったか、休日に酒場を訪ねた折に美しい花壇の前でホメロスが胸を張っていたのを思い出す。
奇怪な草以外にも興味があるのだなと、に対して失礼極まりない感想を抱いたのも同時に思い出した。
なぜがこの花を知っているのだろう。
自らの出自をに話したことはない。
それよりも彼女はこの短期間にどうやって草花を芽吹かせたのだ。
あれは何だ、人なのか。
グレイグは花にそっと触れた。
雨上がりに差し込んだ朝日が、グレイグの指を暖かく照らした。
学習能力がないと言われたことがある。
以前も同じヘマをした気がする。
今日の方がもっと生命の危機だが。
キャンプ地に戻る前に少しでも汚れを落としておきたくて、近くの川辺に寄ったのが間違いだった。
は派手に汚れたスカートを更に泥まみれにしながら、尻もちをついたままじりじりと後退していた。
デルカダール兵の目ばかり気にしていて、魔物たちの存在を頭の片隅どころか綺麗さっぱり忘れてしまっていた。
相手が悪いのではない、こちらが馬鹿だったのだ。
岩だと思い足を置いた先が実は水に浸っていたデスフラッターの骸骨で、頭を突かれ慌てて逃げようと立ち上がった直後、背後のオークにぶつかった。
嘴が刺さった頭は痛いし、びしょびしょどろどろの服は体に張り付いて気持ちが悪いし、いやそんなのはこの際些細なことだ。
オークに襲われている。
同族のグレイグにはおよそ通用しそうにない色気は、魔物のオークには効果があったのかもしれない。
美しすぎるのも罪だ。
オークの図体はもちろんホメロスよりも大きい、というかもう見えている部分すべてがカミュより大きい。
うう、息が臭い、寄らないでほしい。
オークの体を受け止められるほど懐は深くも大きくもない。
「く・・・、く・・・、くっころ「そこをどけ!」
ぐおぉぉぉとオークが恐ろしい叫び声をあげ、上半身と下半身が真っ二つに切り裂かれる。
オークと似たような体格の影が背後から伸び、軽々と体をつまみ上げられる。
オークの次はまたオーク、女を巡って同士討ちをする習性があるのだろうか。
できれば共倒れしてほしかったが、これ以上仲間を呼んでほしくはない。
「またオーク、もうやだぁ・・・」
「・・・だろう」
「・・・げ」
オークよりも厄介な、一番出会ってはいけない人物と出くわしてしまった。
もう既に捕まっているが逃げなければ。
じたばたと暴れていると、頭上から落ち着きなさいとやや慌てた声が降ってくる。
びりぃと何かが破ける音とともに、体が地面に落ちる。
山林の逃避行中に生地を傷めていたらしく、襟のあたりの服が破けたらしい。
凄まじい格好をしていそうだが、とにかくこれで逃げられる。
四つん這いになったまま逃走を図るが、グレイグに足首を掴まれ地面にうつ伏せになる。
うう、痛い・・・。
惨めさにいよいよ耐え切れなくなりぐすんと泣き声を上げると、グレイグに再び体をつまみ上げられる。
お姫様抱っこをしろとは言わないが、相手はまだ生きているのだからもう少し人間らしい扱いをしてほしい。
はグレイグの前に座らせられると、ずずと鼻をすすった。
「どうしたのだ、その格好は」
「別に・・・、ちょっと川でデスフラッターの骸骨蹴飛ばした拍子に突かれて、オークに襲われて泥だらけになっただけです」
「ちょっとではないだろう・・・。どうしていつも川辺に行く、私が来なければどうなっていたやら」
「オークに串刺しにされるか、グレイグ将軍に串刺しもしくは真っ二つにされるかの違いと思います・・・」
「・・・後者は否定する。だからその、泣くのはもうやめてくれ」
グレイグはそう言うと、目の前で小さく縮こまっているを見つめた。
服を着ているというよりも、布がくっついていると表現した方が正しい。
むしろ出会ったのが人でなくてオークで良かったのではないかと思えてしまうほど、目のやり場に困るいでたちだ。
先程取り逃がした悪魔の子とマルティナ姫は元気にしていたというのに、2人との差がありすぎる。
戦闘経験のない子を旅に連れ出すことの危険さを、悪魔たちは理解していない。
はただの一般国民だ。
悪魔の子たちが100できることを、はおそらく30もこなせない。
だからこの惨状なのだ、あまりにも痛ましい。
「少しは落ち着いたか」
「はい。・・・あの」
「前にも言ったと思うが。単身外を歩くというのは感心しない。危険なのは魔物だけではない」
「確かにグレイグ将軍たちもいるんだった・・・」
「あまり心配をかけるな。どんな事情があるかはわからないが、たとえ離れていてもお前を案じている奴がいる」
「将軍・・・」
「戻るなら私も力を貸そう」
「無理やり連れてかないのはどうしてですか?」
疲れきった表情でが顔を上げる。
いつか城外で保護した時よりも遥かに傷だらけで、やつれている。
肉付きももう少し良かった気がするが、辛い旅をしているのだろう。
廃墟で為す術なく座り込んでいる子どもを見捨てるのは、人にできる業ではない。
グレイグは黙って右手をの体にかざした。
体を震わせ反射的に逃げ出そうとしたの腕を、空いた左手で掴み止める。
溢れ出た金色の光を目にしたが、はあと大きく息を吐く。
どうやら相当辛抱していたらしい。
一度のベホイミでは彼女の傷を癒しきれそうにない。
「・・・ごめんなさい、グレイグ将軍にこんなことさせて」
「この力はデルカダールに住まう民を救うために使うものだ、気にするな。それよりも痛みはどうだ?」
「ん・・・、大丈夫です、もう歩けます」
のっそりと立ち上がったを見上げる。
まだ無理をしているように見えるが、彼女が言うとおり歩くことはできそうだ。
この後、はまた悪魔の子たちと合流するのだろう。
彼女の後を追えば、再び悪魔の子たちと相まみえることはできる。
だがそれは、から寄せられた信頼を握り潰してしまうことになる。
には訊きたいことがある。
彼女をここで絶望のどん底に突き落とすことはしたくない。
を連れ戻せと怒鳴り散らしていたホメロスも、おそらく壊れた彼女は望んでいないはずだ。
「私は国に戻る。悪魔の子は取り逃がした」
「はい」
「好きだった花を見つけた。何の効能もない見た目が美しいだけの平凡な花だが、大切なものだった」
「あー、花畑見つかっちゃったかあ」
「次はできれば、もう少し安らかな地で咲かせてほしい」
「夢見の花・・・じゃないですよね。どれだろ・・・ってうっわ、ポケット破けて中身すっからかんじゃん」
どの花のご指名かわかんないですよ、グレイグ将軍!
の戸惑いの声に応えることなく、グレイグは馬上の人となった。
第5話のリフレイン