課外授業は好きですか
夕香の身長が伸びた。すくすくと健康的に成長している証で喜ばしい。
夕香がまた新しい漢字を覚えた。聡明な子に育っていることも喜ばしいことである。
子どもの成長というものは、たとえそれがどんなにわずかなことであっても喜ばしい。
しかし、こればかりは困った。大変答えを見つけにくい宿題である。
いや、正答を知っているのだが、正答を真面目に教えるにはまだ夕香は幼すぎる。
しかし、だからといって嘘を教えることも気が引ける。
余所の家庭はどういう風に答えているのだろうか。
そもそも余所の家庭も、この年齢の子供が無邪気に尋ねてくるものなのだろうか。
わからない、何もかもがわからない。自分の時を思い出そうとしても記憶がない。
子どもの頃の思い出なんてそんなものだ。
幼なじみとの余計なエピソードばかりが幼少期のメモリーを占めていて、肝心な事は何ひとつとして覚えていない。
駄目だ、1人でどうにかできる問題ではない。
父親は相変わらずの生活だし、1人で無理でも頑張るしかないのだ。
きっとこれも兄としての試練だ。
・・・いやだがしかし、やはり1人では心許ない。
豪炎寺は携帯電話を手に取ると、ボタンを1つ押した。
発信履歴の一番上に表示されるのは、余計なエピソードばかり脳内に詰め込んでくれた幼なじみだ。
彼女には夕香も実の姉のように慕っているし、回答者を変えても文句は言うまい。
それに向こうだって、あれだけ懐かれている夕香を悲しませるようなことはできないだろう。
一緒に宿題を解いたりするのも幼なじみのよくある日常だと一之瀬からも聞いた。
今回のこれは紛れもなく宿題だ。ゆえに、幼なじみを巻き込んでもいいだろう。
豪炎寺は覚悟を決めてもう一度ボタンを押した。
3コール後に、いつものようにはいはーいと元気な声が聞こえてくる。
用件を告げようとして豪炎寺はしばし黙り込んだ。
何と言って引きずり込めばいいのだろう。
言い方を間違えればセクハラと認定されそうだ。
どうしたの用がないなら切るよとまくし立てるに、豪炎寺は覚悟を決めた。
「、頼みがあるんだが」
『へぇ? 修也がそんな言い方するなんてどうしたの。ほら、言ってみなさいよ』
「・・・保健体育の宿題に付き合ってくれないか?」
『サッカーの試合? 変な言い方するからびっくりしたのに結局それ?』
「・・・保健の方だ」
『・・・あー・・・、えっと、あれ? インフルエンザ的な予防接種の注射怖いからついてきて、的な?』
「注射は怖くないし全然違う。・・・いや、ちょっと挿す的には当たってるかもしれないが・・・」
『ごめん嫌な予感しかしないから切っていい? 下ネタ聞かなかったことにしたげるから頭冷やせ』
「切るな! ・・・夕香が、子どもってどうやってできるかって訊いてきたんだ・・・。手伝え」
電話の向こうがしんと静まり返る。
まずい、単刀直入に言いすぎて引かれてしまったか。
とそっと名を呼ぶと、はあと思いため息が返ってくる。
助けてくれと懇願すると、またため息を吐かれる。
が渋る理由もよくわかる。
自分だって、同じ頼みを聞いたら戸惑ってしまう。
もしかしたら断るかもしれない。
は大変だねぇと他人事のように呟くと、再びため息をついた。
『おじさんお医者さんなんだから、おじさんにお任せしちゃいなよ』
「父さんは例のごとく家に寄りつかない」
『修也は医者の息子なんだからなんとかしなよ』
「医者の息子が助手を欲しがってるんだ」
『私さー、豪炎寺家の人間じゃないんだけど』
「病院の人には俺の彼女扱いされてるだろう。嫁か母か姉になったつもりで頼む」
いつもと一緒に夕香の病室を見舞っていたせいか、すっかり顔なじみとなったナースセンターの看護師たちはのことを夕香ちゃんのお兄さんの彼女と思い込んでいる。
彼女ではなくただの幼なじみですと訂正しても、そうなのうふふと暖かく笑うだけでのポジションを改めてはいないし、最近は訂正するのも諦めた。
夕香があれだけに懐いていれば、そう思ってしまうのも仕方がないのだと思う。
病室を訪れる父もにはべらぼうに甘い。
不束者の息子だが見捨てないでやってくれなど、自分よりも更に不束者のに言うのだから腹立たしい。
『言っとくけどほんとに助手に徹するからね。メインは修也、わかった?』
「わかってる。じゃあ明日からやるから、自分の時のことを思い出しておけ」
『私のー? どうだっけ、今更ママたちには訊きにくいしなあ・・・』
文句は言っても結局は引き受けてくれるあたりは、伊達に長い付き合いをしているわけではないと思う。
好感度は確実に下がっただろうが、背に腹は代えられない。
親となったらいずれは通る道だと思ったら、それを早めに学べるいい機会ではないか。
まさか中学2年生のド思春期の、そういった話題が非常に難しい時期にぶち当たるとは思わなかったが。
ああ、きっと明日は今日よりももっとずばずばと文句を面と向かって言われるんだろうな。
豪炎寺は問題を抱え込みすぎ、額に手を当てた。
思えば、サッカーとその日の夕食以外の話題をと真面目に語らったのはこれが初めてかもしれない。
テーブルの上に保健と理科の教科書を並べてはいるが、当初の予想どおり話はちっとも進まない。
真面目に語るのも疲れてくる。
「夕香ちゃんにはまだ早いとかでいいんじゃない?」
「そうやって誤魔化すのは良くないと、昔テレビで言っていた」
「じゃあいっそ、修也が持ってるAVの1本でも見せれば?」
「持ってないし、あったとしても見せられるわけがないだろう。俺が中学2年生だって忘れたのか」
「いやあ、修也その気になれば高校生に間違えられるよ」
「話を逸らすな、もっと真面目に考えろ」
「考えてるじゃーん。もう、さっきから私しかアイデア出してないよ。助手を扱き使いすぎ!」
何か言ってよとせがまれ、改めて考えてみる。
やはり、直接的に言うのにはまだ早いと思う。
植物のおしべとめしべくらいが妥当なのだろうか。
そう口にしてみると、いいんじゃないと即答される。
そのくらいなら小学校でも習うだろうし、導入としても間違ってはいないと思う。
なによりも、これならば嘘をつく必要がない。
「おしべについている花粉が虫や風によってめしべまで運ばれて受粉になって、種ができて花が咲く。どうだ」
「へえ、そんなふうになってたんだー」
「・・・、1つ確認してもいいか?」
「なぁに?」
「ちゃんと知ってるんだろうな」
「何を?」
「子どものでき方」
「・・・ばっかにしてんの?」
「でもさっきの花の話は知らなかっただろう。確実に忘れてるか、そもそも知らなかっただろう」
「だって理科は苦手だもん。知らなくても花は勝手に咲いてるもん」
私は植物じゃないから知らなくてもいいもんと滅茶苦茶な開き直り方をしたを、豪炎寺はいいわけがないだろうと一喝した。
確かには植物ではないが、人としての知識としては知っておくべき常識だ。
幼なじみがこんなことまで知らないとは思わなかった。
夕香の前にを躾けるべきだ。
豪炎寺は人選ミスを悔やんだ。
「そういや、私たちっていつそれを知ったんだろうね。最初のうちはキャベツ畑で手を繋いで歩いてたら赤ちゃんできるって聞いたけど」
「こうのとりだろう・・・」
「へ? いやいや、キャベツ畑でしょ」
「・・・俺はがちゃんと子育てできるか不安になってきた」
「そう? 私いいお母さんになると思うけどな。あっ、男の子だったらサッカーさせよ!」
「相手が野球派だったら?」
「うーん、そもそも現時点で野球少年に興味ないからなー。こないだも野球部のエース?みたいな人のお話はお断りしたし」
理科の教科書をぱらぱらと捲り、この花綺麗などとぼやいているを複雑な思いで見つめる。
野球部のエースとやらは知っている。
合同体育で素晴らしい運動神経を見せつけてくれた少年だった。
半田いわく、『お前と二分するくらいに女子に人気がある奴』らしい。
少し話してみると性格もいいことがわかったが、は何が気に入らなかったのだろうか。
木戸川にいた頃からずっと思っていたが、が男のどこを見て振り続けているのかよくわからない。
まあ、今日まで彼氏ができていないおかげで、休日という休日をサッカーの試合に連れ回すことができるのだが。
「・・・よし、こんなものでいいだろう」
「おー、さっすが医者の息子! それもこれもよくできた助手のおかげ!」
「減らず口しか叩かない助手で、むしろ患者に近かったけどな」
「えー、私だってちゃんと考えたじゃーん。はっ、すごくいいこと考えた!」
「何だ?」
ひそひそ話を聞かせるように、豪炎寺に耳打ちする。
少し驚いた顔をされたがすぐに頷いた姿に、は満足した。
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