豪炎寺はリビングで落ち込んでいた。
美波に負けた。あっさりと負けた。
遂に兄離れの時が来たのだろうか。
それとも、もうお兄ちゃんと一緒にお風呂に入るのは恥ずかしい年頃になったのか。
早すぎる、少なくともあと5年はいけると思っていたのにあまりにも早すぎる。
これも美波のせいなのか。
そもそも、秘密のお話って何だ。
美波には言えてお兄ちゃんには言えないことなのか。
こんなに落ち込むのなら、3人一緒ならいいよという夕香の願いを聞き届けておくべきだった。
美波に確実に1週間は口を聞いてもらえなくなるが。
ああ、今頃夕香と美波はどんな話をしているのだろう。
後で夕香は教えてくれるだろうか。
夕香が駄目なら美波に訊こう。
あれは意外なまでに押しには弱いから、ちょっと脅せばすぐに口を割るはずだ。
風丸の髪留めを質に取ればその確率はぐんと上がる。
「・・・お兄ちゃん、寂しくて泣きそう・・・」
豪炎寺はため息をつくとテーブルに突っ伏した。
1人で入る風呂はのんびりと寛げてほっとするが、誰かと入ると賑やかで楽しい。
美波は夕香の髪の毛を洗ってやりながら頬を緩めた。
「かゆいとこなーい?」
「なーい。・・・あのね、美波お姉ちゃん」
「ん? あ、お湯流すからちょっとお口閉じててね」
シャンプーとリンスを洗い流してやると、夕香がくるりとこちらを向く。
なにやら緊張しているように見えるがどうしたのだろうか。
秘密のお話というのだからきっと、話しにくいことなのだ。
実の兄に話さず兄の幼なじみに聞かせるというのも不思議に思う。
一歩間違えればこちらが理不尽な怒りと嫉妬を買いかねない。
はっ、もしかして恋バナだろうか。
なるほど、それならば兄には話せまい。全力で恋路を邪魔される。
「あのね、美波お姉ちゃんは夕香のことどう思う?」
「夕香ちゃんのこと? 可愛くて優しい、いい子だって思ってるよ」
「そうじゃなくて・・・・・・。家族・・・じゃないけど・・・」
「ああ! 夕香ちゃんのこと妹みたいに思ってるよ。一緒にご飯作ったりお泊まりしたりお風呂入ったり、家族みたいだよね」
「ほんと!? ほんとのほんとに家族みたい?」
「うんうん。夕香ちゃんは私のことどう思ってるの?」
「えっとねっ、お姉ちゃんみたいでお母さんみたいでお兄ちゃんのお嫁さんみたいでねっ、大好き!」
「うんなんだかあれれって思うのが2つくらいあったけどそっかそっかー。私も夕香ちゃんのこと大好きだよ」
中学2年生でお母さん。
そういえばいつだったか豪炎寺からも俺の母さんに似てきたと言われたが、何なのだこの兄妹は散々うら若き乙女のことを母親呼ばわりして。
純粋な気持ちで言っている夕香を窘めることはできないし、むしろそう思われているくらいに慕われているということなので嬉しいとも思ってしまう我が身が恨めしい。
美波はぎゅうっと抱きついてきた夕香を抱き止めるべく両手を広げた。
可愛い、本当に可愛い。
豪炎寺がシスコンになってしまうのもわかるくらいにとてつもなく可愛い。
今頃悔しがってるだろうなあ修也、私に負けたとか思ってて。
悔しさと劣等感をより刺激するように、彼が風呂から上がったら勝ち誇った笑みを浮かべて頭を撫でてやろう。
考えるだけで楽しくなってきた。
そうと決まれば早く風呂に入れてやろう。
「秘密のお話はもういいの?」
「うん! ありがとう美波お姉ちゃん!」
寝巻きに着替え豪炎寺に風呂を譲る。
宿題の残りをやったら寝ると言う夕香に手伝おうかと申し出ると、今日は平気だと返される。
美波じゃ手に負えないかもしれないとほざく幼なじみの背中をぺしりと叩くと、夕香が楽しそうに笑う。
やっぱりラブラブだあと言うので、そこだけはやんわりと訂正を入れる。
夕香を部屋に戻しソファーに寝っ転がってテレビを観ること30分、複雑な表情を浮かべた豪炎寺が戻ってくる。
2人でこっそりと夕香の部屋を覗くと、宿題は終わったようで明日の学校の準備をしている夕香を見つけた。
「夕香と今日一緒に寝ようかな」
「いいんじゃない? 1人寝じゃ寒い季節だしねぇ」
「あっ、お兄ちゃん、美波お姉ちゃん!」
「夕香、宿題は? 今日お兄ちゃんと一緒に寝ようか?」
「終わったよ! あと、1人で眠れるもん!」
「そ・・・、そっか・・・・・・。
すげなく断られ落ち込む豪炎寺は放っておき、夕香におやすみなさいと告げる。
ついこの間までは一緒に寝てとおねだりしていたが、良くも悪くも熊のぬいぐるみのおかげで1人で眠れるようになったらしい。
あんな大きなものをあげるからこういうことになるのだ。
そのあたりまで考えられなかった豪炎寺の作戦負けだ。
「かわいそうな修也くん、よしよし」
「撫でるな。夕香と何話してたんだ?」
「秘密のお話?」
「俺には言えないことなのか。何だそれは」
「うーん、何だったんだろ・・・」
「男か、まさか男ができたのか」
やはりそうきた。
返事をしないことを肯定と受け取ったのか、豪炎寺の顔色が見る見るうちに変わっていく。
どうなんだ、そうなのか相手はどこの馬の骨だと矢継ぎ早に尋ねてこられ、少しどころか大いに鬱陶しい。
なんだか相手をするのが面倒になってきた。
湯冷めをする前にとっとと寝よう。
そう思いソファーから半身を起こすと、がしりと肩をつかまれる。
ここから逃さないつもりらしい。
ますますもって面倒な奴だ。
「男ができたのか、美波」
「その訊き方じゃ私に彼氏ができたみたいに聞こえるんだけど」
「美波にできるわけないだろう、俺がいるのに。それに美波じゃない、夕香だ」
「ああ、私も最初はそういう恋バナ系なのかなって思ってたんだけど違ったんだよねー。なーんか、私のことどう思ってるかって訊かれた」
男の話でないことに安心したのか拍子抜けしたのか、豪炎寺はあからさまに全身の力を抜くとふうを息を吐き美波の隣に腰を下ろした。
びっくりしたと尋ねると、驚かないわけがないと返される。
あと10年、いや15年は駄目だと当然のようにのたまう彼に、シスコンというのは一種の病気なのではないかと疑ってしまう。
これでは夕香が少し可愛そうだ。
思春期になると、お兄ちゃん嫌いだと言い出しかねない。
「家族みたいかって訊かれたからうんって答えたけど、良かった?」
「夕香が喜んでたならいい。事実、美波は夕香の姉みたいなものだし」
「あと、修也の嫁みたいって言われた。そんなにラブラブに見えるもんかな、夕香ちゃんには」
「見えるからそう言ってるんだろう。でも、どのあたりが見えるんだろう」
「それそれ! おっかしいよねー、ハグもキスもしないのにさあ。最近のアニメに出てくる夫婦はそんなにプラトニックな関係なの?」
「さあ・・・。今度そこらへんも調べた方がいいかもな」
「おう」
そうと決まればまずは、夕香が毎週観ているアニメのDVDを借りてこなければ。
豪炎寺と美波に宿題が1つ増えた。
私には、お父さんとお兄ちゃんとフクさんの4人の家族がいます。
お父さんは毎日おしごとでとってもいそがしいけど、おうちにいる時はいつもやさしくしてくれます。
フクさんは毎日おいしいご飯を作ってくれて、きれいなお洋服を着せてくれる、とってもやさしい家政婦さんです。
お兄ちゃんはものすごくサッカーが上手で、試合ではいつもかっこいいシュートをたくさん決めてくれる、とっても優しいお兄ちゃんです。
(中略)
お兄ちゃんには幼なじみがいます。
たまにお家に来て、一緒にご飯を作ったりお風呂に入ったりしてくれる、とってもかわいくてやさしいお姉さんです。
美波お姉ちゃんは私の本当のお姉ちゃんじゃありません。
私は美波お姉ちゃんのことは本当のお姉ちゃんみたいに思ってるけど、美波お姉ちゃんがどう思ってくれているのかちょっと不安でした。
でもこの間、美波お姉ちゃんは私のことを妹みたいに思ってて、家族みたいだよねって言ってくれました。
すごくうれしくて、何度も何度も同じことを訊いてしまいました。
そしたら美波お姉ちゃんは何度もそうだよって言ってくれました。
お兄ちゃんは、美波お姉ちゃんととっても仲良しです。
だから、美波お姉ちゃんをお兄ちゃんがいつかお嫁さんにして、ほんとの家族にしてほしいなって思っています。
宿題の作文(授業参観で発表済)を披露した夕香が、はにかみ笑いを浮かべながらどうかなと家族の顔を順に見る。
どうかなって、そりゃあ夕香が一生懸命書いたものだから手放しで褒めてやりたい。
家族の特徴をとてもよく捉えた、全世界の小学生が書いた中で最も優れた作文だと思う。
だが、後半がいけない。
素直に喜べない、お兄ちゃん。
正直ラストの文章、笑顔が凍りついた。
困惑の表情を浮かべていた隣で静かに話を聞いていた父が、ゆっくりと夕香と名前を呼ぶ。
どうだったお父さんと夕香に尋ねられ、父の顔がふわりと緩んだ。
「夕香は天才だなあ! アンコールしたいくらいによくできた作文だ。さすがは私の医者としてのDNAを引き継いでいる娘だ! なあ修也」
「う、うん・・・。でも夕香、」
「特に後半! そうかそうか、夕香はそんなに美波ちゃんを家族にしたいのか」
「うん! あのねっ、ほんとに美波お姉ちゃんに訊いたんだよ! そしたら家族みたいだよねって!」
「インタビューもしておくとはさすがは夕香だ、えらいぞ夕香。修也、お前の電話を貸しなさい」
「なんで」
「決まっているだろう、今からこれを美波ちゃんに披露して感想を聞かなければならない」
「どう考えても美波はびっくりして訳がわからなくなった挙句、すべての原因を俺にして怒るからそれだけはやめてくれ父さん」
携帯電話というよりも、美波の電話番号だけは奪われてはいけない。
豪炎寺は電話をポケットに突っ込むと持久戦に入ることにした。
物の分別は弁えている父だから、さすがに葉山家に連絡はしないだろう。
クラスの先生児童、保護者全員に兄の嫁候補扱いされたと知ってみろ。
確実に美波は切れる。
夕香にではなく、自分に対してのみぶち切れる。
美波から不当な怒りを買うことには慣れているのでどうということはないのだが、今回は内容が内容なだけに怒りの程度が推測できない。
父と攻防戦を繰り広げていると、ふと、父が思い出したように自身のプライベート用携帯を弄りだした。
「そうだ、修也に頼らずとも知っていた」
「なんで父さんまで。・・・まさか父さんも美波が母さんに「似てきたと思う。十数年後が楽しみだな夕香」
「美波お姉ちゃんが家族になるなら、お姉ちゃんでもお母さんでもどっちでもいいよ!」
どっちでも良くない。
そんなこと言ったら美波が切れるどころではなくなる。
被害をより最小限に抑えるには作文を聞かせるしかないようだ。
手渡した電話にかじりつき嬉々として作文を読み上げる夕香に安らぎを覚えながら、豪炎寺は約10分後に訪れるであろう罵詈雑言の嵐への対処法を考えることにした。
典型的な似たもの親子である