公主様の帰還     3







 相変わらず美味い肉まんを提供する店だ。
朱然の身銭を切った宣伝活動で軍内にも一定の客がついたらしく、客層が以前よりも格段に良くなった。
今や、建業でもっとも治安の良い店となったかもしれない。
は定位置で馴染みの味を堪能しながら、店主に近況を聞いていた。



「へえ、そのような拾い物を・・・。奥方様のような見る目のあるお方に拾われてようございました」
「建業に出入りする商家の者に預けようと考えているのですが・・・」
「それはどうでしょう。わしらの商圏は出て江陵、襄陽まで。許昌や洛陽の品はそこであちらの商人と商いをして手に入れております」
「江陵は難しいでしょう・・・」




 江陵へ出向いたことはない。
魏蜀とかの地を巡って争った要衝で、今も絶妙な均衡で保たれているという危険な地だと聞いている。
凌統でなくとも、かの地へ妻が赴くことを良しとする夫はいないだろう。
胡分たちに任せても良いが、生憎と彼らは事情を知らない。
命を懸けてガラクタを運べと頼めるわけがない。
胡分たちは張り切って任務を遂行しようとするだろうが、荷の中身を尋ねられても答えられないだろうし、余計な面倒を招きかねない。
いっそのこと、何も見なかったことにして捨て置こうか。
それができなかったのは、祖国にいる家族たちの顔が浮かんでしまったからだ。
兄たちは変わらず息災のようだった。
会いたい人がいても会えない事情がある中で思い遣ってくれた彼らに、まだ愛されている。
そしてこちらも、これらガラクタの主たちを忘れてはいない。




「寿春、石亭、皖・・・」
「あっ、姐御次は皖にお出かけですかい? いいとこですぜえ、皖城は。でへへ・・・」
「良質な鉄が採れるとは以前伺ったことがあります」
「皖城は昔から美女が多いと有名で、周瑜様の奥方の小喬殿も皖の出身なんですよ」
「左様でございますか」
「あっ、いやでも凌統様は姐御一筋ですし俺らも今は姐御にお仕えするのに集中したいんで、別に遊びに行きたいとかじゃなくですね!?」
「ばっ馬鹿野郎! 姐御が女遊びなんて許してくれるはずが「では皖にいたしましょう」
「「ええっ!?」」
「わたくしも皖の商家に預けることにいたしましょう。人の往来が多い地であれば、託す者も見つかりやすいはず」




 美女を求めて男が多く集まる。
良いではないか、平和な証拠だ。
子分たちの嫁探しの一助にもなれそうだし、凌統の妻も探せるかもしれない。
はて、夫はいったいどのような女が好みなのだろうか。
出立の前に確認をしておく必要がある。
は甘味処を出ると、妙にそわそわしてる胡分たちを引き連れ邸へと歩き出した。



























 黙々と夕食を食べ進めているを見つめる。
子分たちとの日々はなかなかに充実しているようで、はよく食べる。
来て初めの頃は馴染めていなかった貝や水稲も今はすっかりお気に入りで、手料理として振舞ってくれる機会も増えた。
は、許昌ではどのような生活を送っていたのだろう。
親きょうだい以外とも交流はしていたのだろうか。
初めて出会ったのが宮城から抜け出した城下だったということもあり、姫君だった頃からが活動的だったとは予想できる。
そうでなけれな自ら進んで赤壁に乗り込むこともなかったはずだ。
の余りある好奇心と行動力のおかげで彼女の夫として共にいられることに、実はもっと感謝すべきなのかもしれない。



、ありがとう」
「いかがされたのですか、突然・・・」
がこっちに来てくれたおかげで俺はこうしてとまた会って、一緒にいられるんだなって思うと急に」
「わたくしは留まるつもりは毛頭なかったのですが」
「そりゃそうだ。を捕まえたのも留め置いたのも身内から引き離したのも、悪いのは全部俺ってね」
「ですが、戻る機会はあれど公績殿の元へ留まり続けたのは私の意思でございます」



 曹丕は殿を手放すつもりはないようですよと、かつて陸遜は忠告していた。
夷陵で受けた傷に魏帝やその周囲が激昂し、あわや陸遜が殺されかけたと聞いた時は肝を冷やした。
孫呉は、たったひとりの女の怪我が元で軍の中枢を喪うところだったのだ。
の代わりは誰にも務まらないが、陸遜の代わりも当然いない。
幸い陸遜もも無事に戻ってきたが、その日以来を一歩引いたところから見てしまっている自分がいる。
もちろんのことは愛おしい。
彼女の出自や背景を理解し、それによって起こるであろう様々な影響もすべて覚悟した上で愛し妻にした。
誰に何と言われようと手放すつもりはない。
仮に彼女より先に死んでも、のただひとりの男で在りたい。
には自分以外必要ない。
そう思っているのに、いざ彼女を取り巻く環境に触れて狼狽えてしまった。
一国の主の妹という存在は、こちらが想像していたよりも遥かに大きな愛情を注がれるらしい。
曹丕の弟たちへの仕打ちについては決して良い評判を聞いていなかったから、異母妹に過ぎないのことも同じような扱いだと思っていた。
魏帝といえど、人間だった。
国中でもっとも権力を持つ男の意思を翻意させるに至ったの真意が凌統には見つけられなかった。




「そういや、曹休って知ってる?」
「ええ。それが何か・・・」
「寿春を守ってる曹魏の大将なんだ。と同じ一族だけど、会ったこととかあるのかなって」
「文烈殿・・・、曹休殿は幼い頃にご両親を亡くされたゆえ、兄と同じように父上に育てられた方です。わたくしにとっても兄のような方で、・・・ええ、騎乗はあの方に教えていただきました」
「へえ。にとってはいい兄貴分だったんだ」
「とても優しくて真面目で、人が好い方でございます」



 文烈殿はお元気なのでしょうか。
孫呉の誰もが知りたい曹休の消息を案じたに、凌統は曖昧な笑みを返した。

























 罪悪感は微塵もない。
他愛ない世間話の中では勝手に口走っただけで、こちらから誘導したり強制してはいない。
そもそも、今度の戦いは完全黙秘の秘策中の秘策だ。
凌統は陸遜や朱然など主だった将が集まった議場で、曹休の特徴を伝えていた。



「曹休は人が好くて騙すには好都合だ。周魴には強めに支度してもらう必要はあるけど、同情を誘って乗せればこっちものってね」
「おお、なるほど! では早速そのように・・・」



 意気込み議場を後にした周魴を見送る。
凌統は、大丈夫でしょうかと不安げに呟いた陸遜へ視線を移した。



「凌統殿、本当に良かったのですか」
「良いも悪いも、今回の戦に勝つにはこっちは総力戦でかからないといけない。もちろんには戦をすること自体言ってない」
殿、烈火のごとく怒らないか? 俺としては悲しむ殿も見たくはないけど」
「怒ってるも悲しんでるもあんたには見せるつもりはないから安心しな」
「確かに、我々の中で曹休の素性を最もよく知るのは殿でしょう。ですが、殿は聡い方です。敵将のことを訊かれ素直に真実を言うとも限りませんし、万一この策を知れた時はどのような行動を取るか予想ができません」
「そのために子分たちもつけてるんだ。滅多なことはしないしできないって」
「・・・一応私も殿の身内の端くれとして言わせていただきますが、殿を人質にするようなことは考えていませんよね?」
は俺の妻だ。愛する妻を傷つける夫がどこにいる?」



 まだ気付いていないだけで、が知れば彼女は自責の念に押し潰されてしまうのではないだろうか。
陸遜と朱然は顔を見合わせると、深く息を吐いた。





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