炎天原へようこそ 3
いつも返事は元気良く、はっきりと。
じめじめうじうじとした答え方では相手は不安がります、自信を持って堂々と答えなさい。
幼少時に亡くした母の言葉は、大きくなった今でも心に深く刻まれている。
だが、今回はそれが仇になってしまった。
陸遜は有無を言わさず追い出された書庫の前で、1人静かに佇んでいた。
早々にお引き取り下さいと言われ、なぜあの時の自分ははいと答えてしまったのだろう。
何と聞き間違えて諾としてしまったのだろう。
露とも思っていなかった本音とは真逆の返事をしてしまったばかりにに追い出され、こうして外に突っ立っている。
先程の返事は嘘です、本当は朝から晩まで殿と共にいたいんです!
はっと我に返り慌てて弁解に戻ったが、にはこちらの声も姿も認識されていなかったのかすべてを無視された。
無視というのはなかなかに辛い仕打ちだった。
さすがに、今日はもう一度彼女の元を訪ねることができそうにないほどに陸遜は落ち込んでいた。
「殿・・・、書物の整理でお忙しくて私に気付かなかったんですね・・・」
うら若い乙女をカビと埃臭い書庫に押し込めるとは、この国の人事はいったいどうなっているのだ。
ほどの器量良しならば将軍付きの女官になることもできるだろうに、人事担当はのどこを見ているのだろうか。
明日にでも、執務室の使い走りとを取り換えて下さいと申し出てみよう。
居候の延長で女官の真似事をしているあれは、器量は抜群に良いが親密度と相性は大いに欠ける。
なによりも、あれのおかげで余計な来訪者が増えて気が散る。
もしも彼女がになれば、それはそれで気が散って仕方がない気もするが。
陸遜は書庫に向かって一礼すると、おそらくは自身の不在でてんやわんやの大騒ぎになっているであろう現実へと踵を返した。
何がいけないというわけではない。
どこがいけないというわけでもない。
強いて言うならば、何をやるにつけてもそれを行う時期がすべてとち狂っているのだと思う。
凌統と甘寧はいつの間にやら日課となってしまった若軍師の現状報告を聞き、毎日恒例の頭を抱えるという動作を繰り返していた。
2人が陸遜に恋い慕う女性がいると知ったのは、呂蒙も交えての小さな酒宴での席だった。
その日は何か気に食わないことがあったのか、ほんの少しだけ深酒した陸遜がぽろりと女性の名を口にしたことがすべての始まりだった。
初めのうちは浮いた話ひとつ聞かないお堅い軍師の恋愛話ということで面白おかしく茶化しながら聞いていたのだが、時を経るにつれ話はだんだんと厄介になっていき、
今では叶う見込みもおよそなさそうな一方的すぎる思いを延々と語られている。
という娘は、これといった話をしたことはないが見たことならば何度かある。
女官たちの中では珍しく媚を売らない性格で、陸遜が惹かれるのもそこそこに納得できるすっきりとした容姿の持ち主だった。
本当はもっと彼女の人となりを研究して陸遜に教えてやりたいのだが、必要以上に近付くと陸遜からあらぬ疑いをかけられ、ついでとばかりに屋敷に火もかけられるので迂闊なことはできない。
人質を取られているも同然な凌統にとってそれは、甘寧よりも深刻な問題だった。
「正面から攻めても無駄、背後から回り込めば存在そのものをなかったことにされる始末。残る手段は夜襲しかありません」
「それに至る前に、日中の攻め方を工夫したらどうですかね」
「詳しく教えて下さい凌統殿」
「悪く思わないで下さいね? 軍師さんのやり方はきつすぎるんですよ。好きでもなんでもない相手からあんなことされたら、そりゃ俺でも引きますって」
「引く? 殿はそう簡単に引き下がる方ではありません」
「・・・たとえ話でもしましょうか。とある娘は、軍師さんのことが好きで好きでたまらない。でも軍師さんは彼女のことが好きじゃない。
娘は軍師さんに気に入られたくて毎日毎日恋文を送り会いに行き、愛を囁き続ける。どう思いますか?」
「気味が悪く、そして鬱陶しい方だと思います。私に近付いてほしくないし、一生近付くなと言うでしょうね」
「よくわかってんじゃねぇか、軍師さん」
「どういうことですか、甘寧殿」
ただ酒を呷りに来ただけかと思っていた甘寧が、凌統のおぞましいたとえ話にぴくりと反応する。
陸遜から視線を受けた甘寧は、一気に盃を空にするとにやあと笑みを浮かべた。
「軍師さんはに好かれたくて毎日通って好き好き言ってんだろ? けどあっちからはもう来るなって言われたり無視されたりして、凌統のたとえ話の男女を入れ替えただけじゃねぇか」
「いいえ殿はお優しい方です! 私のことを鬱陶しいとは思いませんし、ましてや、一生近付くななど言うものですか!」
「いや、女ってのは結構冷たいことさらっと言えますよ。俺なんか1,2・・・ま、5回は来るなだの近付くなだの嫌いだの言われてましたし」
「凌統、お前それ本気で嫌われてたんじゃねぇの?」
「馬鹿言うんじゃないっての、あれもすべては俺を思っての言葉だっての」
「では彼女よりも数段優しく、そして心配りのできる殿のそれら発言も私を思って・・・!?」
「「それはない」」
第三者の目から見るに、の陸遜を邪険に扱う言葉の数々は疑う余地なく純粋なる嫌悪感からきている。
愛情などどこにも見えやしない。
欠片すら落ちていない。
どんなに陸遜が足掻こうが愛を囁こうが、叶わない恋なのだ。
今までの陸遜の度を超えた愛情表現が、をますます遠ざけているのだ。
これから何をしようと、現状を覆せるようなことはまず起こらない。
凌統と甘寧は、陸遜へ恋の終結通知を告げる時期をかれこれ数か月前から窺っていた。
「私も、凌統殿のようにいっそ何か大きな事件でも起こせばいいんでしょうが・・・」
「物騒なこと言うのやめて下さい。それにあれは事件じゃなくて戦、あっちが仕掛けてきた戦でしたから」
小火騒ぎでも起こして、殿の住まいから何からすべて奪ってみましょうか。
虚ろな瞳で宙を見据えうっそりと笑う陸遜に、凌統と甘寧は底知れぬ恐怖を覚えた。
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