氷天楼にご案内 序
何が一番大切なのか、さすがにそのくらいは弁えていてほしいの。
言ってる意味、わかってるわよね?
繋ぎの仕事とは、こんなに長く居座るものなのだろうか。
当初の予定では季節が一巡りするまでの辛抱だったのだが、いつの間にやら何度も巡っている。
元いた職場が復旧する見込みもないらしく、今も更地のままだ。
灰ですべてが消えたかつての居場所が懐かしい。
戻れることなら今すぐにでも帰りたい。
そもそもあそこは、燃えたら燃やしっぱなしにしていいような場所ではないはずだ。
何年も紐解かれなくなった小難しい書物や、どこから手に入れたのかも価値の有無すらわからない絵画も、きっと見る人が見ればまたとない宝なのだ。
季節が何度巡っても放ったらかしということは、この国にそれらを必要としている人がいないということなのだろうが。
「殿」
「帰りたい・・・」
「殿、終業時刻はもう少し先ですよ」
「元の職場に戻りたい・・・。誰も来ない落ち着き、内職が捗っていた静けさ、僻まれない閑職、すべての理想だった書庫番に戻りたい!」
「その言葉を聞くのはこれで263回目です。いくら殿の声でも、さすがにもう少し他のことを言っていただきたいのですが。
例えばそうですね、今の仕事の良いところなどはどうでしょう。まだ一度も伺ったことがありません」
言ったことがないのは良いところが思い浮かばないからなのだが、この男はそんな単純な答えにも気付かないのだろうか。
こんなのでも孫呉一の切れ者、軍師殿なのに。
大体、こいつのおかげで何やかやと大変で面倒で億劫なのだ。
どいつもこいつも、良いお家柄のお坊ちゃまという生き物は総じて複雑な女心を理解しない。
は筆を置くと、いつの間にやら隣にすり寄っていた上司をひたと見据えた。
「陸遜殿、私はいったいいつまでここで働けばいいのでしょう」
「おや、働きたくありませんか?」
「ええ、とっても」
「では妻になっていただけますか? それなら働かなくて結構ですし、私も大賛成です」
「そうではなくて、私はいつ陸遜殿の元で働くというお役目から解放していただけるのかと訊いているのです」
「人聞きの悪い、それではまるで私が無理矢理殿を連れて来たような口ぶりではありませんか。
たまたま空きが出ていた私の執務室付きの文官の応募をしてきたのは殿でしょうに。運命を感じました、あの時は」
「騙すようなかたちで連れてきたくせに! 凌統殿たちまで使って私を陥れて、こんな外道なやり口で入った職場で仕事ができるはずがありません!」
「とても優秀ですけどね、妻にしてしまうのが惜しいくらいに」
書庫では主に内職に励んでいたというだが、なるほど確かに彼女の集中力には目を見張るものがある。
陸遜はぶつくさと文句ばかり連ねるの文机にどっさりと積み上げられた処理済みの書簡を取り上げ、ほうと感嘆の息を漏らした。
閑職をやりたがるという謎の性分さえ出さなければ、彼女はもっと楽に働き稼ぐことができると思う。
内職に明け暮れずとも、国から支給される給金でやりくりできるはずだ。
彼女が3日に一度は発する恨み言もの声だと思えば内容はともかく小鳥のさえずりと楽しむことができるようになったし、何よりも、彼女が来てから残業が減った。
徹夜で雑務を片付ける日ががくんと減った。
前任者も非常に賢い女性だったが、彼女を取り巻く諸々のおかげで別の手間がかかっていた。
内職というの名の副業を行う時間を稼ぐためならば、こうも本業を手早く効率良く処理できるのか。
内職も捨てたものではないらしいと妙な納得をしてしまいそうになる程度には、陸遜はの才能を認めていた。
書庫なんて二度と再建しなくていい。
再建してしまえば最後、彼女は再び書庫の主へと舞い戻ってしまう。
それだけは何としてでも避けなければならない、目的のためならば同僚を丸め込み火矢を射かけさせることも厭わない。
「殿はどうして私と共に働くことを嫌うのですか。私、何かあなたにしましたか?」
「なんですか、急に・・・」
「働くことが嫌というならば、これから先夫婦となればどうするのですか。いい加減に慣れていただかないと私も夫となるからにはいつまでも甘えさせるわけにはいきません」
「そ、そ、そういうところが嫌なのです! 私がいつ妻になると言いましたか、好きでもない人と一緒になるわけがないでしょう!
大体あなたみたいな人に添うなんて、どう考えたって一番面倒で厄介で・・・・・・あ」
「・・・面倒で厄介ですか。まさかそこで最上の扱いをしていただけるとは思いませんでした。さすがは殿、そういうところもますます好きですよ」
顔を真っ赤にして怒鳴った直後に狼狽えた表情になったを見つめていると、寂しさよりもわくわくしてくる。
彼女が言わんとしていることはわからないでもないが、認めたくはないので知らないふりをする。
内容がどうであれ、いつも冷ややかな彼女が今は自分に対してのみ感情を露わにしている。
自分しか見ていない、今だけは彼女を一人占めしている。
嬉しくてたまらない、ずっと独占していたくなる。
一番手っ取り早いのはやはり常に傍に置くこと、すなわち妻として娶ることだ。
実力行使に出てしまえば、彼女が『面倒で厄介』と毛嫌いする諸問題に介入されることもなくなるだろう。
だから常日頃から愛を囁いているのに、には一向に届かない。
内職をしなくてもいい楽な生活が目の前にぶら下がっているというのに、まるでそれを罠だとでも思っているのか彼女は見向きもしない。
「良くない点は改善しましょう。話し合いが足りないのであれば、これからは昼食だけでなく夕食も共に語り合いましょう。私たちに必要なのは相互理解です」
「上司と寝食を共になんてまっぴら」
「寝るとは言っていませんが、殿は早とちりですね。私としてはそれもやぶさかではないのですが」
「そういう下品な物言いはご自身の品格と人気を下げるのでやめた方が良いかと」
「今更気にせずとも殿からの評価は地に落ちていますし、でしたら何か響くかもしれないので手当たり次第にと」
「軍師ならもう少し頭を使っては? ・・・・・・その、あまり言いたくないのですが」
「もう既にたくさん言われていますので、気にせずにどうぞ」
「陸遜殿、義封殿と親しくなってから知性が欠落していません? 夷陵で蒸発したのでは?」
命がけで戦ったことを茶化すのはどうかと思ったが、冗談と笑えないほどにこのところの陸遜は箍を外しすぎている。
まだ若かろうが、彼は諸将を置いて孫呉の軍をまとめる都督となったのだ。
いつどこで誰が見ているかもわからない中、部下の女官に軽口と妄言をだだ流しにしていていいわけがない。
あんなのでも一応上司なのだ。
そりゃあ人並みには気にかけているし、心配もするから苦言も呈する。
あわよくば苦言に機嫌を損ねて職務から遠ざけてくれる、ここまでいけば上等だ。
はちらりと陸遜を見つめた。
心なしか唇が震えているように見える。
少し言い過ぎたかも知れない、手打ちされない程度に手加減したつもりだったがそのあたりの燃え加減も同僚につられ即発火型になっていたら困る。
「殿・・・今のは・・・」
「私だって本当は言いたくなかったんです。でも、陸遜殿が浮かれすぎているのなら「義封殿とは、それは・・・」義封殿は義封殿、朱然殿でしょう。義封殿と私、実は」
「どうして私のことは字で呼んでくれないのですか!」
「そこですか!?」
「そこしかないでしょう! 私というものがありながら、なぜ・・・!?」
この男との相互理解は無理だ、諦めよう。
言いたかったことが微塵も聞こえちゃいない。
は理不尽にも責めるような視線を向けてくる陸遜から逃れるべく、終業時刻の鐘の音と共に執務室を飛び出した。
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