氷天楼にご案内 8
と名乗った今度の女官は長く続くと思ったのだが。
于禁は無人となりしんと静まり返った邸を見回し、息を吐いた。
質は比べようがないのでわからないが、はよくできた女官だった。
よほど手際も良いのだろう、侍女としての勤めを済ませた後は内職にも励む孝行な娘でもあった。
少々妙な交友関係を築いている点は弛んでいると気になったが、それは余所者が口を挟むべきものではない。
ずっと平時であれば良かったが、乱世は平穏を見逃してはくれない。
不逞の輩に勤め先を放火され、かつての上司にも罠に嵌められようとしていたのならば、でなくても嫌がる。
むしろはよく保った方だ。逃げるのも無理はない。
逃げない方がおかしいとさえ思う。
そう、何かがおかしい。
于禁は、が邸に置き忘れたままの布を取り上げた。
鳳凰とは言っていたが、生地にはまだ羽根の一枚も描かれていない。
孫呉の気風と違うものを選んでいるのだ、見たこともないには想像すらできないだろう。
内職道具を置いているということは、彼女は戻ってくるつもりなのかもしれない。
屋敷をうろつく人物は于禁も心当たりがなかった。
陸遜が侵入していたことにすら気付けなかった。
武人としての勘が鈍っているようで、それはそれで空しくなる。
樊城の戦いで敗れ関羽に降り、孫権に保護されてそれなりの年月が経っている。
最後に戦場に出たのがいつなのか考えたくもない。
今の自分では貴人を守ることができるのか、それすら危うかった。
「于禁様」
「何用か」
「はっ、曹魏よりの使者が孫権殿の元を訪れたようです。迎え入れる支度が整った、と」
「左様か」
とはこれきりなのかもしれない。
于禁は布を元の位置へ戻すと、自室へと退いた。
また大人げないことをしてしまった。
はいつもよりも軽い袋を手に、于禁邸へ向かっていた。
今更どの面下げて仕事をすれば良いのかわからないが、于禁は良くも悪くも深入りをしてこない都合と勝手のいい主なので、さほど気にしなくていいのかもしれない。
これほどの大事件になるとは、おそらく誰も考えていなかっただろう。
于禁はひとりで孫呉にやって来たのではない。
彼には彼に従い続ける従者のような男がいて、その男は于禁と行動を共にしている。
曹魏に戻る手筈を整え、連絡係として活動しているのは従者の役目だ。
ただ、彼は内向きの例えば于禁の身辺に気を配るなどといったことが不得手だったから、孫呉から女官を供出することになった。
従者とは事務的な会話しかしたことはないが、于禁の部下らしく職務に忠実な男だったから邸に火を放つとは考えにくい。
そもそも、火を放つ理由がない。
孫呉が于禁を害そうとしたと見せかけるのであれば、もっと巧妙に仕掛けるはずだ。
武人である陸遜たちならまだしも、友人にすぐに知れてしまうようなわかりやすい手を打つはずがない。
これではまるで、気付いてほしいがゆえに何者かがわざと杜撰な策を弄したかのようだ。
「・・・どうして気付いたの・・・?」
元々変わった友人だとは思っていたが、小火騒ぎで邸を訪れた時の彼女の様子は明らかにおかしかった。
いつものように堂々とは振舞っていたが、無理をしているようにも見えて違和感を感じたのも事実だ。
怖がっていたのかもしれない。
自分たちが考えているよりも遥かに悪いことが起こるのではないかと、案じていたのではないだろうか。
これ以上何が起こるのかには想像もつかない。
今以上に最悪の展開が待ち受けているとは考えたくもない。
ただの女官で官吏なのだ。
誰よりも面倒事を厭うている勤労意欲がすこぶる低い、どこにでもいる貧乏人なのだ。
斬った張った燃えた焦げたのすったもんだは、それらを治めるのが仕事の陸遜たちに任せたい。
事件の取り締まりは臨時派遣されている女官の役目ではない。
もちろん、何の官職にも就いていない友人が首を突っ込むものでもない。
下手に介入させて、凌統に笑顔と共にちくりと窘められるのだけは嫌だ。
凌統自身は目下の人々にもとても気さくな好漢だが、長くチビやそれに準じた背格好の連中とばかりつるんでいたにとって、ぐいと大きく見上げた先にある整った顔立ちから繰り出される極上の笑みは心臓に多大な負担を与えるのだ。
偉丈夫が好みというわけではないが、文字通りの高嶺の花で気後れと羞恥が同時に襲ってくるのは平凡な日常には不要な一大事だ。
「・・・于禁殿と一緒にいた方がいいみたい。見回りもしてもらいましょ、そういうの得意でしょうし、きっと・・・」
色々とやらかしてしまったが、仕事は続けるつもりだ。
支給されるようになった割増給金を自らの意思で手放したくもない。
そんな余裕はどこにもない。
は于禁邸へ裏口から入ると、厨を覗いた。
誰もおらず、妙な臭いもしない。
さすがに相手も同じ手を使ってくるほど馬鹿ではないらしい。
相変わらずしんと静まり返っているもの寂しい場所だ。
昨日は陸遜たちが騒ぎ立てひときわ賑やかだったせいか、慣れたはずの静けさが不気味にも思えてしまう。
于禁はどこだろうか。
于禁も無口だが、いないよりもいてくれた方が安心する。
厨を後にしたは、無人の于禁の居室に続いて訪れた自身の控室に現れた人影に思わず身を隠した。
作業台の上でごそごそと何かを物色しているようだが、悲しいかな金目のものは何もない。
前日に置き去りにしたままの内職道具と、暇潰しにと持ち込んでいた書物だけだ。
見守りを頼むのが遅すぎた。というよりも本当に于禁はどこへ行ってしまったのだ。
勝手に外をうろつくような男ではないのに、急用でもできたのだろうか。
とにかく今は、屋敷を預かる者として堂々と不審者と相対さなければならない。
生まれてこの方人の上に立つ役目を仰せつかったことはないが、そのあたりは生まれながらの天上人陸遜やおそらくはその類であろう友人の真似で乗り切ってみせる。
はすうと大きく息を吸い込むと、鋭い声で誰何した。
「そこで何をなさっておいでか? 誰の許しを得てここへ参られた」
「・・・・・・か」
「はい?」
「お前が・・・・・・姫か」
「姫? 尚香様のこと? いったい何用ですか、人を呼びますよ。于き・・・ひぃっ」
音もなく間合いを詰められ、唐突に振り上げられた鈍器を慌てて避ける。
殺す気か。あんなもの何度も避けられるほど体術に優れていない。
打つ手を間違った。逃げよう、これは明らかに手に負えない。
は邸の手口へ一目散に駆け出した。
追いかけてくる足音がすぐ後ろまで迫っている。
怖い、怖い、誰か助けて。
命の危険を感じたのは初めてではないが、今は守ってくれる父も陸遜も、于禁すらいない。
なぜ狙われているのか、姫が何なのか当事者なのに何ひとつわからない。
足にひんやりとした何かが絡みつき、思い切り躓く。
躓いた拍子に床に強かに打ちつけた額から、ぬるりと血が流れるのを感じる。
嫁入り前の顔に何てことを!
そう詰りたいが、恐怖と痛みで呼吸さえままならない。
足を絡め取る鎖に引きずられ、立ち上がるどころか動くことも封じられる。
がっと乱暴に体を引き起こされたは、目の前に突き付けられた刃物と内職道具に息を呑んだ。
死が間近に迫っている。目の前に死神がいる。
「これはお前のものか」
「・・・・・・」
「言え!」
「い・・・言えば離していただけますの?」
精いっぱいの強がりが、目いっぱいの足蹴の前にあっけなく崩れ去る。
蹴られた腹がとても痛い。
痣は確実、臓腑まで傷つけられたらどうしようと不安になる痛撃だった。
もはや何かを言う気力も体力もない。
汗と血と涙で顔もきっとぐしゃぐしゃだ。
何の抵抗もできぬまま抱えられ、見覚えのない馬車に投げ込まれる。
何が起こっているのか、なぜこんな目に遭っているのかわからないままだった。
「たすけて、陸遜殿」
あの男、どうでもいい時は傍に張り付いている癖に今日に限っていないとは。
ああそうか、昨日あんな言い方をしたからさすがの奴も反省をしているのかもしれない。
殊勝な男になってしまったものだ、もっと底意地も聞き分けも悪い男だと思っていたのに。
今からどこへ行くのだろう。
于禁はどこへ行ったのだろう。
男は何者なのだろう。
は徐々に遠ざかる建業の街並みを為す術もなく眺めていた。
大した急用でもなかった急用とやらで曹魏からの使者に呼ばれ、自邸へ戻り門を潜った瞬間に背筋が凍りついた。
不在の間に何か良からぬことがあったと、錆びついた武人の勘に頼らずとも明白だ。
荒らされた室内、争った形跡と所々に散った血痕。襲われたのはどちらだ。
目にした直後、于禁は馬上の人となっていた。
とある邸宅の前で荒々しく馬を飛び降り、使用人の制止も聞かず押し通る。
「急な押し込みはご遠慮願いたいね。殿の客将だから荒事にはしたくないけど、あんたがそのつもりなら俺も容赦はしないよ」
「弁解の余地もない」
それなりの殺気と共に出迎えた邸の主人に睨まれながらも、意識は別の人物を探す。
来るはずのない、呼んでもいない突然の来訪を快く迎えるはずがない。
于禁は凌統の肩越しに邸宅の様子を窺った。
特に変わった点はない。使用人たちも突然の来客に戸惑っているだけで比較的落ち着いているし、何かを隠しているようでもない。
だが安心してはいけない。この男が本音を曝け出すとは限らない。
「悪いけど、あんたと関わり合いになるつもりはないんでね。大人しく出て行ってくれ」
「ひとつだけお聞かせ願いたい。奥方はご在宅か?」
「答える義理はないっての」
「そう・・・か。急ぐゆえ失礼する」
不在と考えた方がいいだろう。
于禁は再び馬に跨ると、次なる目的地へと駆け始めた。
がいなくなり執務に支障をきたしているとごねていた彼だから、きっと執務室にいるはずだ。
文官たちが多く行き交う回廊まで乗りつけ、通りすがりの怯えた女官に居所を尋ねる。
静粛な空間に相応しくない賑やかな執務室を示され、身を固くする。
剣戟の音こそしないが、言い争っているようには聞こえる。
于禁は勢いよく扉を開いた。
怪訝な表情を浮かべている4つの目に見つめられるが、気にもならない。
于禁は女性の前に躊躇いなく跪いた。
「御身がご無事で何よりです」
「・・・あの・・・」
「何の前触れもなく突然いったい何のご用件でしょうか。ご自身の立場を考えれば、斯様な場に来られることはないはず」
予期せぬ来客に狼狽える女性の前に割り込んだ陸遜がきつい視線を向ける。
怒りや疑念はもっともだ。
そしてここにもはいない。
于禁の心は泥を被ったように重く、暗く沈んだ。
「処罰はいくらでも受けよう。殿を見かけなかっただろうか」
「・・・彼女に何か?」
「屋敷を荒らされ争った跡があった。おそらく」
「な・・・っ! まさか・・・!」
勢い良く立ち上がり双剣を手に取った陸遜を于禁が押し留める。
皆まで言わずともわかってしまうのだろう、さすがは若くして孫呉の総司令官となっただけはある。
察しはいいが血気も盛ん、そして気は相当に短いらしい。
どこへ行くという問いに許昌とだけ答え飛び出していった陸遜を見送ると、于禁は残された女性へと視線を戻した。
とても顔色が悪い。なにゆえと呟き、小刻みに震えている。
怖がらせてしまった。無理もない、戦人でもないただの女性には手に余る話だった。
彼女の無事は確かめた。やはり消えたのはだ。
陸遜は一足先に出てしまったし、こちらも一刻も早く彼らに追いつかなければならない。
幸いにも曹魏に戻る手筈は既に整い、今すぐにでも出立することはできる。
陸遜の執務室を後にしようとした于禁は、不意に呼び止められ声の主を顧みた。
「わたくしも参ります。お連れ下さい」
「なりません」
「何故殿が襲われたのか、質さねばなりません。それとも・・・、供をせよ、と命じれば受け入れていただけるのでしょうか、于禁殿」
命令されれば従わない理由はない。
彼女がそれを望むのであれば、応えるのが臣下の勤めだ。
彼女は決して怯えていたのではない、怒りにうち震えていたのだ。
于禁は書置きを記し残した女性を連れ出すと、許昌へ帰還する正規の馬車へ乗り込んだ。
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