かたきどもの遠吠え 10
賈クが使う斥候たちの腕はいい。
軍師たるもの戦術は幾重にも巡らせ練って当然と彼は言うが、それをすべての策士たちがやり遂げられるとは思えない。
曹操軍の軍師たちは皆、非常に優れた者ばかりだった。
彼らの考えのすべてを理解できたことはないししようと思ったこともないが、彼らの献策のおかげで曹操軍はここまで大きくなれた。
「伏兵ひとり出くわさないのが不気味です。関羽軍は全軍を樊城に向けているのでしょうか」
「さもありなん、といったところか。あんたは本当に察しがいい。いったい何を弾めば俺の副官になってくれるのやら」
「いい加減怒ります」
「おお怖い。その目久しく見なかったがいいね、ぞくぞくする」
「・・・・・・」
いつから上司には被虐趣味が芽生えたのだろうか。
気味が悪い。
度の過ぎた冗談には困惑を通り越して冷めてしまう。
そもそも賈クは本当にこちらを認めてくれてくるのだろうか。
典韋の仇としての負い目があるから、今もこうして良くしているだけなのではないだろうか。
子どもの頃から周囲に守られ、可愛がられているばかりだった。
今は亡き郭嘉や荀彧といった軍師たちにも甘やかされ、曹仁や夏侯惇たちにも厳しく育てられてきた。
楽進は今もこちらを全力で甘やかし守ってくれるし、李典に至っては何かを拗らせてしまっていた。
賈クだけ違う。彼には何もしていない。
一方的に殺そうとしただけで、彼の中で評価を上げるような戦功を挙げた覚えは一度もない。
いつ殺されてもいいからなどというふざけた理由で傍に置いて、それですんなりと満足できるほど単純な頭のつくりはしていない。
これ以上は強くなれない。
力技には対応しきれないことは先日の夏侯覇との手合わせで痛感した。
体力だってこれからは下降線を辿るばかりだ。
兵として働けるのもそう長くはない。
普通の子女らしい教育を受けたがらなかったおよそ生活能力に乏しいこの身から兵という職分を失くしたら、後に残るのは何だろう。
何をして生きていけばいいのかわからなかった。
だからと言って、渡りに船とばかりに李典の誘いに乗るのも違う気がする。
彼のことは好きだが、愛していると思ったことは一度もない。
そんな女を彼に抱かせるのはあまりにも申し訳がなかった。
「、」
「・・・はい」
「どうした、顔色・・・は見えないが声に張りがない。何か気になったことでも?」
「賈ク様は声で私の調子がわかるのですか」
「そりゃあ好きな女のことなら何でも気になるってものさ。気になれば世話を焼きたくもなるし、些細な変化も見逃さない。軍師って性分もあるんだろうが」
「・・・賈ク様は」
お喋りが過ぎますという言葉を飲み込むと、草むらに近付いていた哨戒の兵の喉を射抜く。
弓矢を用意しておいて正解だった、やはり夜の行軍はどこから何が出てくるかわかったものではない。
は毒矢を浴び口から泡を吹いている関羽軍の兵の息の根を止めると、草むらで固まったままの賈クを手招きした。
水が流れる音も聞こえる。
ここから先は見回りの兵も増えるだろうから、更に用心して進まなければならない。
「あんたは本当に俺には過ぎた部下だよ」
「では手放されますか」
「いいや、ますます逃がしたくなくなった。、こいつの戦袍は関羽の息子、関平の兵のものだ。水門を守っているのは十中八九関平と思っていい。奴は俺が引きつける、あんたは水門を止めてくれ」
「承知しました。どうか、ご武運を」
関平の武器は確か、の背ほどある大剣だ。
似たような得物を扱う戦慣れしていない夏侯覇との戦いで押し切られたが、彼よりも遥かに手強い関平の相手をするのはあまりに無謀だ。
だからといってこちらが対応できるかといえばそれもまた難しいが、中距離から絡め手を使えるだけまだ分がある。
それにいざとなればに矢で射抜いてもらえばいい。
仇であるこちらも諸共に射抜けるとなれば、も張り切って矢をつがえるはずだ。
は本当に有能な兵だ。
弓術であれば、女性である以上どうしても男よりも劣ってしまう膂力を補うことが充分にできる。
彼女には生きて曹仁の元へ向かうという使命がある。
それは何としてでも達成させなければならない。
たとえどんな窮地に陥っていてもだ。
夜陰に紛れたが、水門付近の兵たちを次々と倒していく。
ここが正念場だ。
賈クは鎖鎌を握り直すと、水門の前に立ちはだかる男の前へ歩を進めた。
随分と嘗められたものだ。
たったこれだけの兵で水門を制圧しようなど笑わせてくれる。
軍神ではないからと高を括ったのかもしれないが、軍神の息子だからこそ血の滲むような鍛練を続けてきた。
曹魏を打倒するため、漢中王劉備が掲げる漢室復興という悲願を達成するため、何としてでも樊城を奪取し許昌や洛陽に繋がる道を確保しなければならない。
水門の破壊による樊城の水没は自らに与えられた最重要任務だ。
関平は周囲の兵たちを次々と倒し現れた別働隊を一瞥し、大剣を担ぎ上げた。
猛将の類ではない。
隙のない戦い慣れた動きを見せているが、体躯は文官たちのそれだ。
傍にぴたりと控えていた女性兵が、すいと後退する。
あの手合いは放っておくと後々面倒になる。
女に向け大剣を構えた関平は、ぬっと立ちはだかった男に眦を吊り上げた。
「おっと、あんたの相手はこっちだ」
「何を企もうが無駄だ、拙者がすべて打ち砕く!」
「敵の嫌がることを企てるのが俺の仕事でね」
がきんと振り下ろされた大剣をいなしてみるが、流したにしては衝撃が強い。
上官失格だが、を顧みてやれる余裕はない。
水門から関平を遠ざけ、少しでも率いる別働隊が動きやすくなるように誘い込む。
水の音が徐々に大きく聞こえてくるのは、水門の限界が近付いているからだろうか。
間合いを取りながらちらりと関平の背後を見ると、が水門を操る工兵らしき兵を蹴倒している。
逞しいお嬢さんだ、嫁の貰い手がなくなったらどうすんだ。
そう心の中でぼやき、彼女には縁談相手がいたという苦い現実を思い出す。
憎き縁談相手とその背後に控える魏王殿下のためにも、何があろうとだけは無事に帰還させなければならない。
彼女が息災でいることが、誰にとっても一番の慶事なのだ。
「賈ク様!」
「余所見をさせるほど拙者は甘くはない!」
「おーっと・・・」
の悲鳴が迸った直後、水で濡れた地面に足元を掬われよろめく。
ほんの一瞬でも生まれた隙を見逃してくれるほど相手は馬鹿ではない。
土壇場で体を捻りどうにか直撃は免れたが、重量感のある攻撃を受けとめ全身に声も上げられない激痛が走る。
立っていることができず、思わず膝をつく。
賈ク様と何度も聞こえる絶叫に、手を挙げ応えてやることもできない。
逃げろと言わなければならないのに。
では関平には勝てない。
水門はもういい、俺のことも放って一刻も早く撤退しろと命令しなければならないのに声が出ない。
止めとばかりに振りかぶられた剣を退ける術も見つからない。
終わった。
「死ねぇい!」
「終わりは・・・こうもあっけないか・・・・・・」
「勝手に終わらせる、なぁっ!!」
声を出すことも動くことも阻まれていた体に、すべてを吐き出されるような痛烈な蹴りを喰らい吹き飛んだ。
激しく咳き込みながらも蹴り飛ばしてきた方を見ると、筆架叉を構え肩で大きく息を吐いている女性が屈強な青年の前に立ちはだかっている。
お前、正気か。
味方を蹴り倒した予期せぬ暴挙に驚いたのだろう、戦う手を止めた関平には淡々と答えた。
「あれは私の上官だが、私の家族を殺した仇でもある。お前のおかげでようやく彼を打倒できそうだ」
「この期に及んで仲間割れか。嫌なものを見せつけてくれる」
「私こそ、つまらないものを見せてしまい心苦しく思っている。だが・・・、あれを殺すのは私だ。お前の手を借りてあれを殺すなど・・・、私以外があの人を傷つけるなど、絶対に許さない」
賈クが圧倒された時、無意識のうちに体が動いていた。
仇とか、かつては殺したかった相手だとか、そういうものは考えもしなかった。
このままだと死んでしまう、それは嫌だったから死なない程度の攻撃を喰らわせてでも後退させた。
賈クが手こずった相手は、こちらにとっても決して相性は良くない。
むしろ大剣遣いは苦手だ。
は賈クに代わり関平を睨みつけると、ひと息吐いて懐深くへ飛び込んだ。
大剣は手元に入り込まれると、その真価は発揮できない。
対してこちらは、決して一撃は重くはないが身のこなしを利用し攻撃の回数を増やせば軽微な傷も重篤なものにすることができる。
夏侯覇と手合わせしていて正解だったかもしれない。
は耳元で低い唸りを上げ迫り来る大剣を交わしながら、間合いを詰めては反撃の機会を窺った。
弾き返されても体勢を崩さぬよう着地に細心の注意を払い、あるいは低い姿勢のまま切り込む。
手強い。一瞬でも隙を見せれば、たちまちのうちに剣の餌食になる。
雨に打たれ、足場も悪くなり体力もじわじわと削られていく。
だがそれは相手も同じこと。
互いに文字通り一歩も譲れない。
膝をついた方が負ける。
は濡れた地面を蹴り飛び込んだ関平の胸元で、双の剣を横に薙いだ。
肉を抉った確かな手応えを感じたまま、腹を足場に宙を一回転しながら間合いを取る。
離れようとした体を繋ぎ止めるように、突然猛烈な力で引き戻される。
ここだ、あの時もそうだった。
夏侯覇との戦いの時はわからなかったが、今はわかる。
は引き寄せられる原因となるものに躊躇うことなく剣を突き立てた。
「!」
「お揃いにしていて気に入っていたのに」
ちょっと行ってくるから大人しく留守番しとけよと乱暴に頭を撫で、談笑しながら戦場へ向かっていく男たちの背中を幼い頃からずっと見送っていた。
風に靡きひらひらとたなびく首巻きや鉢巻がとてもかっこよくて、大好きだった。
兵としての経験を積みそれなりに認められるようになってから、少し恥ずかしかったけれど憧れだったそれを使うようになった。
彼らのように強くあれますように。
立派な兵として戦えるように。
ぶちりと音を立て首巻きが千切れたと同時に関平の力を感じなくなり、は体勢を崩しながらも再び自らの意思で大地に降り立った。
生き延びるためにはこれはいらない。
また拵えればいいだけだ、好きな柄が都合良く見つかればいいが。
捨て身の攻撃を受けた関平が、膝をついたまま荒い息を吐いている。
最後の裂傷が効いたようで、胸からは夥しい量の血が滴り落ちている。
もちろんこちらにもそこらじゅうに傷はできているが、我慢比べには勝ったのかもしれない。
止めを刺そう。
は再び剣を構えると、ゆっくりと関平に歩み寄った。
「樊城は渡さない。たとえ相手が軍神であろうとも」
「拙者は、」
「・・・え」
振り下ろした両の剣をそれぞれ片手で受け止められる。
手甲もない素手から溢れ出る鮮血に雄叫びを挙げながら、関平がの小柄な体を持ち上げる。
敵の前で得物を手放すという発想がなかった。
丸腰になるなんて考えたこともなかった。
視界がぐるりと回転し、体が振り回される。
それはあまりにも突然のことで、受け身を取る余裕も上官を呼ぶ時間もなかった。
体が地面ではない、もっと堅くてささくれ立った何かに叩きつけられる。
嫌な音を立てたのは自らの体か、あるいは叩きつけられた先の何かか。
全身に覆い被さってきたのは痛みだけではない、大量の水だ。
遠いところで自分の名をしきりに叫ぶ声が聞こえる。
あと少しだったのに、どこかに油断があったのかもしれない。
反省しなければ。
「、! !!」
ちらりと見えた上官の顔は、今まで見たこともないくらいに焦っていた。
そんな顔をさせてしまうような何かが、まだ理解しきれていないがこの身に起こってしまったのだろう。
賈ク様。
の返答は濁流に飲み込まれた。
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