かたきどもの遠吠え     13







 立ち塞がる敵を斬り伏せ、疲労と怪我で崩れ落ちそうになる膝を叱咤し続け、前方にうっすらと浮かび上がる城壁を目指す。
目的はあと少し、最後まで力を出し切ればどうにか辿り着く距離だ。
城に近付くにつれ群がる兵は増えるが、足は止まらない。
城壁で戦い続ける一団が、こちらに向かって大きく手を振っている。
それが誰かはわからないが、どうやら味方が気付いてくれたらしい。
良かった、これで助かった。
援護の斉射を受けながら周囲で包囲が手薄な崩れた城門へ駆け寄り、一目散に駆け抜ける。
新たに収容した負傷兵を介抱すべく現れた衛生兵に兵を委ねながら、付近の兵に戦況を尋ねる。
水門が破壊されたことにより一時は水に圧倒された樊城だったが、曹仁の鉄壁の守りと満寵の読みが見事に機能し今は盛り返しているという。
なるほど言われてみれば、敵兵が攻めあぐねているのか戦いに勢いがなくなりつつあるように見えなくもない。
さすがは守備の要曹仁だ、増援に来たつもりだったが大した役には立てなかったらしい。
賈クはとりあえずの処置を受けると、曹仁が控える本陣へと歩き始めた。
道中陣営を覗いてみるが、整然と並ぶ陣のどこにも目当ての人物はいない。
城壁の上はさすがにこの傷では近寄れないが、よもやあのような前線にはいないだろう。
何せ彼女はあの関平と死闘を繰り広げた末に水門に投げつけられ、そのまま濁流に飲み込まれてしまったのだ。
仮に生きていたとしても、戦い続けることができるだけの体力は残されていないはずだ。





「失礼。悪い曹仁殿、遅くなった」
「おお賈ク殿! 水門で関平と交戦したと報告を受けていたが、よく無事で戻られた!」
「これを無事と言ってくれるとはねえ。俺としたことが完全にしくじった、曹仁殿と満寵殿でなければこの城はとっくに落ちていただろう」
「諸将が力を尽くし守り抜いたゆえのこと、我らが浮き足立てば兵の士気にも関わろう」
「さすがは曹仁殿、ここを守っていたのがあんたたちで良かった」
「そういえば賈ク殿、君の隊のひとりを随分と早くに収容したのだけれどもう会えたかい?」




 満寵の口からさらりと出た問いかけに、思わずはあと問い返す。
彼が何を言っているのかすぐには理解できない。
心当たりは大いにあるが、いざとなると言葉が出てこない。
彼女しかいない。彼女しか知らない。以外であってほしくない。
自分を守ったがためにあんな手酷い目に遭ったというのに、まだその名を口にすることが許されるのだろうか。
会ってしまってもいいのだろうか。
会えば最後、彼女に何をしてしまうかわからないほどに心は今、猛烈に彼女を求めているというのに。





「満寵殿、俺の心当たりではひとりしかいないんだが、そいつは・・・」
「おっと、悪いけど今は言えないな。正しくは曹仁殿の前で、という意味なのだけれど」
「自分の前で? なにゆえだ、満寵殿」
「それはそりゃあ「満寵様! 今、あの人が!」やあ、今ちょうど君の話をしていたんだよ」





 収容した時よりも更に細かな傷をそこらじゅうにこさえたが、息を切らせながら本陣に駆け込んでくる。
ああまたこの子は勝手に飛び出して。
満寵は曹仁の姿を認めるや否や、たちまちのうちに顔を青ざめさせたを援護することを放棄した。
この子は一度、もっときちんと叱ってもらうべきだ。
曹仁に静かに名を呼ばれ大人しく返事をする待ち焦がれていた部下の殊勝な姿を、賈クは近くて遠いところからぼんやりと眺めていた。
今は、まるで親子のような2人の間に割って入るのはやめた方が良さそうだ。




「曹仁様、ご無事で良かった」
「うむ、自分は大事ない。もあの乱戦の中、よく生き永らえてくれた。賈ク殿に先んじてここへ来たと先程聞いたが、いかようにして包囲網を潜ってきたのだ」
「ああ、それは・・・ええと・・・」
「そなたが開いた突破口に我らの命運がかかっておるやもしれぬのだ。、いい子だから教えてくれぬか」
「・・・申し訳ありません、曹仁様。それはできないのです。私もまったくわからぬままに川に投げられ、水門の決壊と共にここへ流されてきたようで・・・」
「なんと」
「事実だよ曹仁殿。浮いていたを収容したのは私だからね。それに、私もひとしきり叱っておいたつもりだから少しは手加減をしてやってくれないかな。
 この子はこの後賈ク殿にもきっと怒られるのだろうし」




 いったいいつまで『この子』と子ども扱いをすれば気が済むのだ。
目の前にいるのは在りし日のがきんちょではなく、立派に成人しきった女性だと見えていないのか。
子どもではあるまいし、自分がどれだけ危険を冒していたのかくらい理解している。
それを寄ってたかっていい子だこの子だと、怒られるにしてももっと歳に合った扱いをしてほしい。
は自らが置かれた状況はともかく、あまりにも理不尽な子ども扱いにむっと眉をしかめた。
この上賈クにまで叱られるなど、そうなるに至った覚えはないのだからそれこそ滅茶苦茶だ。
はゆっくりと無言で歩み寄ってくる賈クを見つめた。
いつもの悪人面が激戦の疲れも相俟ってさらに人相悪く見える。
もっと愛想良くならなければ好きな女に振り向いてもらえないだろうに、この男は見た目で損をしているのではないだろうか。
賈クが言葉を発しないまま、両腕を大きく開く。
まさか両手で張り手を飛ばすつもりだろうか。
仮にも縁談相手がいる身だから傷ひとつつけられるかと戦場に赴く前に嘯いていた男はどこへ行ったのだ。
はじいと賈クを見上げた。





「賈ク、様?」

「はい」
「・・・・・・良かった・・・」





 人にこれほど優しく、柔らかく抱きしめられたのはいつぶりだろう。
鉄拳制裁よりはましなのかもしれないが、衆人の中でこの有り様を晒されるのは軍師考案の新手の精神攻撃だろうか。
は自身を抱き締めたきり離れようともしない上司に、為す術なく立ち竦んだ。








































 困ったことになってしまった。
助けてと頼んでも、誰も助けてくれないどころか見て見ぬふりをされる。
それほどが心配だったのですねははははは、ではない。
君たちはそんなに仲良くなっていたなんて水臭いなあでもない。
助けてと言っているのだ。
見て見てすごいでしょと自慢しているわけではないのだ。
はどうにか誘導することに成功した人目につかない城下の隅で、ぴたりとくっついたまま離れなくなった上司の名を呼んだ。





「賈ク様、離れて下さい」
「今度はどこへ行くつもりだ? どうせあんたはすぐにでも戦場に戻るんだろう」
「今は戦時です、戦える者は戦うべきです。私も兵である以上そうすべきですし、戦いたい」
「駄目だ」
「なぜですか、嫌がらせばかりしないで下さい」
「これ以上戦えば、もう戦えなくなる。俺は、あんたを喪うことが今は何よりも怖い。関平に投げ飛ばされ川に落ち流されていったあんたを見送った俺の気持ちがわかるか?」
「わかりません。ああでも、割と強めに蹴り飛ばしたのによく動けるものだなとは思いました」





 そういえば、状況が状況とはいえ一応は上司を問答無用で蹴り飛ばしていたことについてはまだ叱られていないが、これからなのだろうか。
今でさえ充分身に堪えているのだが、今度はどんな精神攻撃をされるのだろう。
いっそ一発殴ってくれた方がまだ気が楽なのだが、この男は見た目どおりなかなかに陰湿ないたぶり方をしてきそうだ。
やはり早急に異動届を出すべきかもしれない。





「俺は、誰に殺されればいいんだ」
「天寿を全うするという考えはないのですか」
、あんたがいなけりゃ俺はどうやって死ねばいいんだ。死ぬなら先に俺を殺せ、そう言っていただろう」
「当時はそうだったかもしれませんが、今は別に・・・。そも、死んでほしかったのならあの時蹴ってはいません。その、蹴ったこと自体については反省していますが」





 今はもう、死んでほしい人など誰もいない。
見知った人は全員長生きしてほしいし、寝台の上で穏やかにその時を迎える生き様であってほしい。
もちろん賈クとてそうだ、いつまでも物騒な理想を押しつけないでほしい。
は小さくため息を吐くと、肩に顔を埋めたままの賈クの背をそっと撫でた。
戦っていた時は痛覚を麻痺させていたのか感じなかったが、体中が痛い。
あまりよろしくない状態だなとは自分の体なのでよくわかる。
戦えなくなると言われたのもあながち嘘ではなさそうだ。





「賈ク様、今の私はもうあなたを殺そうとは微塵も思っていないのです。だから賈ク様が理想として求めてきた私にはもうなれない。
 初めに殺そうとした側が言うのもおかしな話ですが、もうやめませんか? 私は疲れました」
「俺を仇と見なくなったあんたが、この先は俺とどう付き合ってくれるんだ」
「何も変わりません。でも、賈ク様こそ変わってしまうのでは? 首を狙われることもなくなるので副官にする旨味もなくなったでしょうし」





 いつでも殺し合いができるようにと彼なりに気を遣っていたかもしれない人材配置も、これでおしまいになるのかもしれない。
なんだかんだで賈クとは長い時間を共に過ごしてきた。
殺意を持っていたのは赤壁の頃くらいまでで。それから先は実は憎しみすら抱かなくなった。
あれだけ恨んでいたのに、人間というのは存外あっさりとした生き物なのだと思う。
だから賈クもそろそろ自らに課した仇という側面を捨て去るべきだ。
今はもう、誰も彼を恨んではいない。
彼を害そうとする者は誰ひとりいなくなったのだ。





「俺は、あんたの特別になりたい。あんたの縁談相手とやらが憎い、殺したいとさえ思っちまう」
「悪い人ではないので仲良くして下さい」
「その男は、あんたを大事にしてくれるのか」
「ええ。三食おやつ昼寝つきで養ってくれると思います」
「・・・李典殿か」





 だったら好都合とぼそりと呟いたと同時に、賈クがのそりと立ち上がる。
ようやく解放された。
肉感的でもないこの身の抱き心地は決して良くはないと自覚しているのだが、今は有事なので人肌の温もりであれば誰でも良かったのかもしれない。
それはそれで寂しい。
は体が痛み出していることを悟られないよう立ち上がると、賈クを見上げた。
にやりと笑われ、ぞくりと背筋が粟立つ。
今すぐこの男から逃げなければ、とんでもない目に遭わされる。
だが悲しいかな、まずいと思った時は既にこの男の術中に嵌っている。
無理だとわかっていながらも、一応要望を伝える。
却下と即答され、は両手を顔で覆った。





「やめて下さい・・・」
「いやあ、可愛い部下が今日もこれからも世話になったしなるかもしれないんだ。上司としてご挨拶に行かねばなるまい?」
「行かなくていいです。そんなこと思ってもないくせに! 誰かに見られる前に今すぐ! 私を! 降ろして!!」
「俺とあんたの仲じゃないか。楽進殿も満寵殿もはははで済ませたんだから、李典殿も引きつり笑いくらいで収めてくれるさ」
「あの2人が抜けているとはご存知でしょう! もう本当にやめ・・・・・・あ」
「おっ、・・・・・・って、なぁにされてんだお前!?」





 どうやら今でもきっかけさえあれば、賈クへの殺意が湧くらしい。
は賈クに横抱きにされた状態で李典と出くわし、生まれてこの方一番の引きつり笑いを浮かべた。







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