けものの祈り     序







 嫌い、嫌い、大嫌い。
こんなに嫌ってる私のことも嫌いでしょ、いっそ私も殺してよ!















 猛獣に嬉々としてまとわりつきよくじゃれる子犬のようだったのは、そう遠い昔の話ではない。
少々乱暴だが気のいい力持ちの大男に恐れることなくきゃっきゃとはしゃいでいたのは、後にも先にも彼女だけだった。
もっとも、かつての面影は今はもう捨ててしまったようだが。
夏侯惇は顔色ひとつ変えることなく淡々と剣の素振りを繰り返している女性へ視線をやり、小さく息を吐いた。
あの日から彼女の武芸はみるみるうちに上達した。
しかし、剣の腕が確かなものになるにつれ瞳からはきらきらとした輝きがなくなり、顔からは笑顔が消えていった。
何かに取り憑かれているかのように一心に脇目も振らず剣を握る彼女は、そうなるに至った事情を知る者の目でいると非常に痛々しい。
あれだけ懐いていた男が殺されたのだから当然なのかもしれないが、若い娘が華やかな衣服にも装飾品にも目もくれず、ただ剣だけ振るう姿はあまりにも辛かった。
やめろと言えないのは、やめさせた後の彼女を案じるがゆえだ。





「精が出るな、
「夏侯惇様」
「鍛錬に励むのもいいが少しは休め。いつからやっている」
「・・・・・・ずっと見ておられたのですか」
「朝来た時と今来た時、お前は同じ場所でずっと同じことをしていた。ここは戦場ではない。少しは気を抜け」
「夏侯惇様がそのようなことを仰せになるとは」
「俺もお前以外には言いたくても言えんわ。いいか、とにかく休める時は休んでおけ。これは命令だ」
「ですが!」
「近頃市に旨い肉まんを売る店ができたという。来い」
「・・・はい」





 ああ、やっと表情が柔らかくなった。
夏侯惇はわずかに口元を緩め小さく頷いたを従えると、彼女の気が変わらぬうちに市場へと連れ出した。











































 黄巾の乱に乗じた盗賊たちの非道な略奪では、住んでいた小さな村が焼かれた。
帝の威光が衰え荒れた世で懸命に生きようともがいていたら、もはや命以外の何も持たなかったというのにまたもや賊に襲われ、親兄弟が唯一持っていた命を奪われた。
子どもの頃からはしゃぐ元気だけはあり、そのおかげで培われた声量に呼び寄せられたのか親を殺され人攫いの憂き目に遭おうとしていたらしいところを曹操や夏侯惇たちに救われた。
実際に助けてくれたのは彼らではなく、怪力の怖い大男だった。
夢物語で聞いて想像したことしかないが、おそらく鬼のような形相とはあの時の彼の顔を言うのだと思う。
曹操の一声で躊躇うことなく賊を殴り蹴散らした彼は、幼いにとっては噂で聞く飛将呂布よりも強い男だった。
怖い男は、笑うと意外なまでに人懐こくて可愛らしかった。
家族を一瞬で喪い、わんわんと泣き続けていた自分を慰め抱き上げ曹操の元まで連れて行く鬼の顔は鬼ではなかった。
鬼を飼い慣らしていた鬼よりも随分と小柄な男も、気難しそうな顔を緩め頭を撫でてくれた。
小柄な男の隣にいた強面の男の引きつった顔は今でも忘れられない。
今日からわしらがお主の家族じゃ。
そう言って泣き続ける子供をあやし、親たちの亡骸を葬ってくれた時からは曹操軍の一員になった。
母となる女性はいなかったが、女性としての作法を覚えさせようとしてあまりの出来と覚えの悪さに諦めた曹操。
お顔が怖いといつか泣かれたことにさりげなく傷つき、事あるごとに引きつった彼なりの『笑顔』を見せようとして諦めた夏侯惇。
そして、軍に加わってからも何くれとなく世話を焼き、一緒に遊んでくれたり石つぶてを教えてくれたりと親を喪った悲しみを思い出させまいと常に楽しませてくれた命の恩人典韋。
はこの『兄』が大好きだった。
不器用で怪力だから一緒に花を摘むと、典韋がつかんだ花はいつも彼の手の中でただの汁と化していた。
許チョに勧められるがままに美味しいと評判の肉まんをたくさん食べた時は、腹を壊すだろうとこっぴどく叱られた。
たくさんの思い出があった。
しかし、思い出はもう増えない。
彼との思い出は一生作れない。
典韋は、が父と慕う曹操を巧妙かつ冷酷な罠から救うため我が身を盾に主を守り死んだからだ。
夏侯惇たちといつまでも戻らぬ曹操や典韋を待っていた日のことはほとんど覚えていない。
彼らと出会ったばかりの子どもの頃に戻ったかのようにわんわんと泣いて、曹操に抱き締められた時自分の頭が濡れていたことくらいしか覚えていない。
しかし、はその翌日告げられた言葉はしかと覚えている。
脳に深く刻みつけたから忘れることも永劫ない。
曹操たちを柵に陥れ典韋を打った策士、賈文和。
が武芸の腕を磨く理由だった。







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