恋人は天使か悪魔 5
馬家から華やぎが消えた。突然、何の前触れもなくたった一言修行してきますと言ったきり忽然と消えた。
なぜこの時期にわざわざ家を空けるのだと思った。
実際になぜと尋ねたかったのだが、何も聞いてくれるなとの目と表情から無言の抵抗を感じた。
仮に尋ねていても、彼女はずっと無言を貫き通しただろう。
あれで頑固な妹だということを、馬超はこの世の誰よりもよく知っていた。
馬超本人にしても、今は勝手にふらりと消えた妹のことばかり案じている場合でもなく、またそうする余裕もなかった。
曹操と刃を交える合戦が近付いていた。
妹には悪いがここは大人しく、面倒を起こさずに修行とやらに打ち込んでいてほしい。
修行内容がまさか花嫁修業だったらどうしようとも思ったが、あくまで修行止まりなので良しということにしておく。
何度も頭に叩き込むが、今はに構っている場合ではないのだ。
そうだ、妹が何をしていようが我関せずだ。
(・・・にしても、一体誰の下で修業を積んでいるというのだ・・・?)
臥龍と呼ばれる天才軍師にかかれば、錦馬超もただの正義熱血漢。
周到に根回ししてを馬家から引き離したのだから、ちょっと馬超が行方を探っても見つかることはない。
馬超はのことを頭から半ば強引に振り払うと、出来上がったばかりの合戦上の詳細図へと視線を落とした。
煮えたぎる薬の匂いでくらくらする。
毒々しい緑色の液体の数々にげんなりする。
は右も左もわからない、ただめまぐるしく人々が動き回っていることだけはわかる奇妙な空間に佇んでいた。
明らかに場違いな気がする。彼らが何をやっているのか全くわからない。
やっぱりここは私のいるべき場所じゃない。どうにかして家に帰ろう。
は入口からそのまま回れ右をしようとした。
しきれなかったのは、衛生兵の長らしき人物に声をかけられたからだった。
「そなたが新入りか。その歳で医学の知識があるとは、なかなか見上げた根性がある様子」
「そんな大層な知識ちっともないんです。何かの間違いでここに連れて来られたんです、私」
「しかもそれなりに戦いもできるとか。人は見かけによらぬというが、頼もしい限りだ」
「戦ったことなんて一度もないんです! 何ですかその禍々しい虚報は」
謙遜するな自らを誇れと真面目な顔で言いきった男は、そのままを仕事場へと案内した。
奥へ進むほどに薬の匂いがきつくなる。
家で干したり煎じたりしていた時とは比べ物にならないほどに強烈に鼻腔を刺激する。
ここは本当に衛生兵たちを養成するところなのだ。
今まで訓練所といっても趙雲軍の練兵しか見たことがなかったでも、そのくらいのことは理解することができた。
男は自らを董と名乗ると、に着席を促した。
「そなた・・・、は戦場へ赴いた経験は?」
「だから本当に戦ったことはないんです。戦場は私にとっては脱走経路です」
「はは、なかなか面白いことを言う。では、死者を見たことは?」
「・・・それ訊くんですか」
気が付かないうちに表情が、声が険しくなっていたらしい。
目の前の董医師が顔色を変えている。
基本的に兄とは母が違うせいか似ていないが、ふとした時に見せる険しさには共通点があるという。
あなたもなんだかんだで従兄上の妹なんですよと、苦笑交じりに馬岱が教えてくれた。
おそらく、いまもそんな苛烈な表情を見せてしまったのだろう。
迂闊な事を尋ねてきた向こうが悪いのだが、あまり怖がらせても申し訳ない。
は頬を緩めると逆に笑みを浮かべた。
「・・・どうやら悪い事を訊いてしまったようだ、答えなくてもいい。戦場に行けば嫌でも多く見ることになる」
「いいですよ別に、見慣れてますから。もしかしたら董先生よりも見てるかも」
「・・・大口を叩くでない。私は従軍医だ」
「串刺しにされた母も斬首された父も、敵討ちのために立ち上がった同志たちもその敵も。『手遅れ』な人ばっかり見てきたのが私の華の青春時代です」
「・・・・・・」
「たくさん喪ってきたんです。だからせめて私だけは兄や従兄の前から消えたくない。そう思ってたのに、挨拶もここに行くっていう報告もせずにいざ合戦。
兄たちと会うのが戦場だなんて、私すごく不孝者なんですよ」
従軍医だなんて、そんな医術に長けた者は当時の馬超軍にはいなかったはずだ。
いたら彼らは助かっていた?
大地を赤く染め上げるんじゃないかというほどに血を流し続けた彼らが、ろくな時間もなかった戦闘中に一命を取り留められた?
は唇を噛み締めた。
忘れなければ先に進めない忌まわしい過去が頭に浮かんでは消える。
ふわり、と肩に手を置かれた。
横を見ると、いつの間にか董医師が隣に立っていた。
「目の前の、助かるかもしれない命を救うのが我らの役目。武にも長けているそなたはより前線の屯所へと送られるやもしれぬ。
しかし、決して諦めるな。少しでも命を繋げられるよう道を拓け」
「・・・だから、私は武芸はからきしなんですけど・・・・・・」
諸葛亮の妙な勘違いからか、やたらと高評価を受けている現実に押しつぶされそうなだった。
趙雲は、最近とんと見かけない恋人をそれなりに案じていた。
戦争前の忙しい身に気を遣って訪問を控えているのだろうか。
その心遣いはありがたいのだが、こうもぱったりと音沙汰がないと逆に不安だった。
いつも彼女と親しくしている星彩と関平にも、恥ずかしさから訊けない。
いっそのこと彼女の身内にどうしているかと尋ねればいいのだが、付き合いをあまり好ましく思われていないようだからそれも難しい。
どうしたものかと悩み歩いていると、前方から同じように腕を組んで歩いている馬超と馬岱を発見した。
向こうも自分の姿に気づいたのか、片手を挙げている。
「兵の調子はどうだ、馬超殿」
「上々だ。押しも押されぬ正義の軍に仕上がっている」
「そうか」
のことが気になって、どうしても上手く喋れない。
やましい事をしている間柄でもないのだし、すっぱりと男らしく彼女は息災かと訊けばいいだけなのに。
趙雲が百面相をしていることに気付いてかそうでないのか、馬超が妹は、と口を開いた。
「・・・最近、うちのに会ったか?」
「いいやまったく。・・・彼女は元気にしているのか?」
「・・・あの子は趙雲殿の元にも訪れていないのですか?」
馬岱のいやに静かすぎる問いかけに、趙雲の胸が妙に騒がしくなった。
分岐に戻る