公主様の秘め事     3







 は中庭で武器を振るっていた。
姫君の嗜みとして教えられたものではない。
むしろ、が武を奮うことを曹操は喜んでいなかった。
戦場に赴くのは息子たちで充分。
何が悲しくて汚れひとつ知らぬ愛娘を血まみれにさせなければならないのか。
いくら乱世に生を受けたからといって、誰もが戦場で戦う必要はないのだ。
父と義母と息子たちの猛反対を食らって一度は諦めかけただったが、望みはまだ捨てきれていなかった。
父や兄に教わるのが無理ならば、親族である夏侯惇たちに習えばいいのだ。
幸い彼らは自分のことを可愛がってくれているし、戦場での話もよく聞かせてくれる。
もしかしたら護身術くらいは嗜むべきだと言ってくれるかもしれない。
の考えは当たった。
孟徳には言うなよと、あの盲夏候将軍自らが手ほどきをしてくれたのだ。




「言っておくが、戦場に出るのを応援しているのではないぞ」
「わかっております」
「あくまで身を守るための最低の方法だ。間違っても戦には・・・」
「出ません。元譲おじ上に言われるまでもなく、己の非才は存じておりますわ」




 武芸を教わって改めて、己には武器は向いていないことがわかった。
しかし、向いていないのだが息抜きにすることはできた。
朝から公主としての教育を叩き込まれて大人しくしていると、身体が動かしたくもなるのだ。




「・・・ですが、やはり外へ出る方が楽しいですね」




 は早々に武器を仕舞うと、侍女に告げてから1人市街へと下りて行ったのだった。



























 凌統は引き続き許昌の内部探索をしていた。
兵の数は思ったよりも少なく、門の突破さえすれば攻略は簡単に思えた。
できることならば宮城の方も覗いてみたいが、さすがにそれはできそうになかった。
下手に動いたがために目を付けられても困るし、密偵というのはつくづく難儀な仕事である。





「兄ちゃん旅の人かい?」
「そ。やっぱ大きなとこだね許昌は」
「そうだろうとも。門の向こうにおわす曹操様のおかげでさ」
「だろうねぇ。一度宮殿に行ってみたいものだよ」




 凌統は商人に相槌を打ちながら辺りを見回した。
今日もも見ていなかった。
やはり家から抜け出すのが難しいのだろうか。
話や口調からしてかなりのお嬢様のようだし、ひょっとしたら先日のことで叱られているのかもしれない。




「はは、今宮殿に行ってもいらっしゃるのは文官の方々や姫様だけさ」
「姫様?」
「知らないのかい。とてもお綺麗な方だよ」
「へぇ、会ったことがあるってかい」
「商売仲間が宮殿ご用達の布扱ってて、それに付いて行っただけさ。ちらりとお見かけしただけだったけど、そりゃもう可憐な方で」




 何気ない会話の中に、いくつかの情報があることに気が付いた。
宮殿へ忍び込む方法を見つけることができた。
あとはどうやって商人に取り入るかである。
露店の主人の元から離れると、凌統は廃屋に向かって歩き始めた。
残念なことに、有名な商人との繋がりはまだ見つけていない。
どうしたものかと考え込んでいると、不意に公績様と呼ばれた。
この名を呼ぶのは1人しかいない。
そう思い顔を上げると、凌統の反対側から廃屋にやってくるがいた。
軽く手を上げると笑顔で駆けてくる。





「3日ぶり、今日は抜け出せたんだな」
「毎日来れず申し訳ありません。・・・もしや、毎日こちらへ来て下さっていたのですか?」
「まぁね。に逢えると思ったらいつだって行くっての」
「公績様は女人を喜ばせるのがお上手なのですね」




 はくすくすと笑うと、懐に手を差し入れた。
長くいるとお腹が空くでしょうからと包みを取り出すと、そこからいい匂いがしてくる。




、お嬢様なのに料理できるんだ」
「人に甘えてばかりでは生きてゆけませんし・・・」
「すごく美味いよ。はぁ、嫁にやるのが惜しくなるね」
「まぁ、父上ではあるまいに・・・」




 凌統は肉まんを頬張りながらを見つめた。
彼女の実家はどのような家なのだろうか。
商家の娘だとしたら、相当に儲けているに違いない。
しかし仮に彼女が大富豪の娘として、彼女の父に取り入ってことを成すのは心情的に許せなかった。
悩んだ様子でいる凌統には眉を潜めた。
美味しいと言ってくれたのにそんな顔して、嘘をついてまで喜ばせてくれなくてもいいのに。




「公績様、許昌はお嫌ですか?」
「は? なんで」
「お顔が楽しくなさそうです。・・・何か悩み事がおありなのですか?」




 わたくしで良ければお手伝いいたしますと心配そうに言うを見て、凌統はとてつもなく申し訳ない気持ちになった。
にまで心配されるなんて、せめてここにいる時は孫策軍の凌統ではなくてただの凌統でいたかったのに。
彼女の笑顔を見て安らぎたいと思っていたのに駄目じゃないか。
凌統はを困らせたくはなかった。
いつも笑顔でいてほしいのだ。




「いや、大したことじゃないよ。・・・あ、そうだ、はお姫様見たことある?」
「お姫様、でございますか?」




 彼が言っているお姫様とは、ほかの誰でもないわたくしのことではないか。
父には多くの息子や娘がいるが、どういうわけか今宮殿に住んでいる姫は1人だった。
異母姉たちはほとんど嫁いでしまったのだ。
も明日は我が身と思いながら、父からの降嫁命令が出るまでのんびりと暮らしていた。




「すっごく美しい姫様なんだって。会ってみたいよな」
「私はお会いしたことはございませんが・・・。会いたいと申されても、公主はあの宮殿の中にお住まいなので難しいのでは?」




 あなたの目の前にいるのが姫君なんですとは言えなかった。
素性を明かさないことが条件で市街へ来ているのだし、そもそも言うつもりもなかった。
しかしこうもあっさりと美しいとか会ってみたいとか言われると少し照れてしまう。
だが、彼が会いたいと言う理由は何なのだろう。




「公績様は、見目麗しい女人がお好きなのですか?」
「そりゃ俺も男だし」
「曹操様にお仕えしている女官の方々は、皆美しい者ばかりだと聞きます。宮殿にお入りになったら、公績様大変でございますね」
「ちょっとその言い方ひどかないかい?」




 凌統はにこやかにからかうの頭を撫でた。
さらさらとした黒髪が思いのほか触り心地が良く、梳く動作を繰り返す。
くすぐったいですと身をよじるが可愛くてにじり寄ると、その距離の分だけ離れようとが後ずさる。




「公績様、お戯れが過ぎ・・・きゃっ!」




 が座っていた箱がぐらりと崩れ、身体が倒れる。
凌統は咄嗟にの手を掴むと引き寄せた。
腕の中からふわりと上品な良い香りがする。
不可抗力でこうなってしまったのだが、手放すのが名残惜しくて凌統は柔らかな身体を抱き締める腕に力を込めた。
が、その直前に腕からするりと温もりがなくなる。
はっとして前を向くと、頬を紅く染めたが立っている。




「その、さ、。別にやましい気持ちからとかじゃなくて・・・!」
「助けていただいてありがとうございます公績様」
「もしかして怒ったりしてる? それにさっきのあの動きって・・・」
「いいえ・・・、今は乱世でございましょう? わたくしも万一のために護身術を嗜もうかと思い、親族から教わったのです」




 淡々と応えるに相槌を打ちつつ、凌統はの先程の動きを思い出していた。
護身術にしてはやけに実戦向けだった気がしないでもない。
もっとも彼の周囲にいる女性は好んで戦場で敵を倒しまくるような子なので、比べようがないのだが。




、また俺と逢ってくれる?」




 凌統の問いかけにはきょとんとして彼の顔を見つめた。
そしてもちろんですと笑顔で応える。




「公績様が次の都市へ行かれるまでの間、私が喜んでお相手いたしますわ」
「ありがとう、




 に嫌われていなかったことに、大いに安心した凌統だった。







分岐に戻る