上から照らす、私が光
寡黙な戦術家が美しい花を愛でているらしい。
花は美しいだけではなく肝も据わっていて、ともすれば許昌を混乱と醜悪な環境へ突き落としかねなかった事件を未然に防いだという。
わしなんて巻き込まれていたことも知らなんだのに。
陳宮はそうぼやき杯を呻った曹操をちらりと横目で眺め、ため息を吐いた。
本当に知らなかったのだと思う。
夏侯惇から急報を聞きつけ曹操の安否を問うた時、曹操は寝所に籠もっていた。
毒を吸ったのかと侍医に尋ねても侍医はとぼけた顔をするだけで、問い詰めると主君は女を連れて入っただけと白状した。
無事で良かったと安堵するより先に呆れた。
「媚涎香(びぜんこう)とはよく言ったものよ、誰が名付けたのやら」
「あまりにも品が、品がない」
「件の女は王允殿の邸に仕えておったとか。貂蝉以外にも美女を揃えていたとは惜しいことをした」
「あの女、果たして御せるのやら」
「ほう?」
かつて、洛陽に身を置いていたことがある。
女の存在は知らなかったが、王允がどんな思惑か、様々な手を使い董卓軍に入り込もうとしていたことは有名だった。
曹操に宝剣を与え粛清を唆したのも王允だから、曹操も心当たりはあるはずだ。
明るみになったのは貂蝉だが、彼女以外にも手引きさせていた駒はいた可能性はある。
おそらく女は道具だった。
王允の意のままに動き、そして、当時は董卓と真逆の関係にあった荀攸に見初められた。
寡黙な荀攸は女について何も話さない。
そうすることで彼女を好奇の視線から守り、隠している。
虎を酔わせ人を壊す、淫蕩な名を持つそれを知る女を表に出したくない。
訳があるに決まっている。
「誰であろうと、わしを守ったことに変わりはない。召し出し褒美のひとつも渡したいが荀攸は固辞する。どうしたものか」
「捨て置きなされ」
「しかし頴川で仙女と持て囃された女は見てみたい」
「本音が、本音が透けてますぞ」
「おぬしも見たかろう? のう陳宮」
「私は別に・・・」
仙女など存在しない。
媚涎香を嗅ぎ平然としていられる女が天の使いでいられるわけがない。
彼女は何を啜っても生きていける強かな生き物だ。
たとえどんなに美しかろうと、親しもうとは思えない。
何人もの男を落としてきたであろう馴れきった笑みを向けられたところで、自分には何も響かない。
陳宮は酒量が増していく曹操の手から酒瓶を奪い取ると、酒家の窓から城下を見下ろした。
噂をすれば荀攸が足早に歩いている。
荀攸の隣には女がひとり、彼の歩く速さに追いつこうと懸命に足を動かしている。
ああやって意地らしくするのも女にとっては常套手段だ。
陽の光に照らされた女の髪が眩しくて目を細める。
視線に気付いたのか、女がゆるりと顔を上へ向ける。
目が合った気がして身動ぎする。
あんな目は見たことがない。
動揺し酒瓶を床に落とすと、曹操も窓際へにじり寄る。
ううむと曹操が感嘆の声を上げた。
「おうおう、あれが噂の仙女か。これはまた」
「曹操殿」
「おおい荀攸、おぬしも一献どうだ」
「曹操殿!」
階上の曹操からの呼びかけに荀攸が足を止める。
隣の女と言葉を交わしているが、荀攸の表情がみるみるうちに険しくなっていく。
女を軒下に隠したのか、2人の姿が消える。
断られてしまったのかと展開を見守っていると、部屋に荀攸が現れる。
曹操殿と呼ばれ、曹操は酒瓶を掲げた。
「どうだ、おぬしと連れの花とぜひ」
「申し訳ありませんが今日はご容赦ください」
「つれぬのう。それほど噂の仙女を見せたくないとは」
「・・・」
「よい、よい。許昌をよう案内してやってくれ。王允殿にはわしも世話になったゆえ、懐かしくなっただけよ」
「お心遣い感謝いたします、では」
あっさりと出ていった荀攸を見送り、再び城下へ視線を落とす。
今度はきちんと存在を認識してくれたようで、女も迷うことなく階上を見上げている。
深々と頭を下げにっこりと微笑むと、すぐさま荀攸に向き直る。
今度は間違いなく目が合った。
女は、何らかの意図を持って視線を寄越している。
「あの女、私を、私を見ていましたぞ」
「いいやわしだ。陳宮、さては女に魅入られたな?」
「まさかありえませぬ!」
陳宮は曹操のにやけた笑みと揶揄を激しい言葉で拒絶すると、荀攸と並んで去っていく女の後ろ姿を見つめた。
もっと近くで笑みの真意を探りたかった。
そこはもう、舞台袖ではない