女狐の艶笑     9







 馬超と入れ替わりで寝室へとやって来たの顔を見て、趙雲は息を呑んだ。
怒ってもいなければ笑ってもいない。
泣き顔でもなく無表情だ。
道端に転がっている石ころを眺めるような、興味の欠片もないものを見つめる瞳でこちらを見据えている。
これはまずい、怒りを通り越した境地にいる。
何を言っても手遅れな気がする。




・・・・・・」
「はい」
「その・・・・・・、此度のことはすまなかった・・・」
「それは何に対しての謝罪ですか? 女に現を抜かしたこと? 私の前で女と親しげにしていたこと? 女に骨抜きにされて危うく命を落としかけたこと? どれですか子龍殿」
「ほ、骨抜きになどされていない! 信じてくれ、私と珠蓉との間にやましい事などない!」




 がばりと勢い良く頭を下げると、刺された傷がぴりりと痛む。
は趙雲を見下ろしふうと息を吐いた。
本当にどこまで誠実で優しい人だ。
優しい性格は時として弱点となると、今回のことで趙雲も気付いただろう。
これを期に、無理難題には否とはっきり言えるようになってほしい。
主に信頼され高い位にも就いているのだから、趙雲の進言もこれからはそれなりの重みを持ってくるのだ。
駄目なものには駄目だと言えなければ国も不安定になる。
は痛そうな趙雲の背を撫でると、顔を上げて下さいと告げた。
もっとよく私を見て。
もう他の女に走らないでいいくらいに、しっかりと私をその目に焼き付けて。
そう呟くと、趙雲が驚きの表情を浮かべた。





「許してくれるのか・・・?」
「あのまま子龍殿が骨抜きにされていたら、今頃私たちの関係終わってましたよ。朴念仁だと思い込んでいた私が間違っていました」
「わ、私にはだけだ! ・・・しかいないのだ・・・」
「珠蓉さん・・・でしたか? あの人、子龍殿のこと愛してました。知ってましたか?」
「いや・・・。亡骸を葬ってくれたそうだな・・・、すまない・・・」
「他人事じゃないですから。珠蓉さん、息を引き取る前にこう言ってました。子龍は簡単に約束を破る人だから、破られないようにしっかりと繋ぎ止めておけって。
 私もいくつか子龍殿と約束したことあるんですが・・・」




 約束と言われ、趙雲は頭をめまぐるしく動かした。
忘れてはいけない大事な約束はどれだっただろうか。
郊外の泉への遠駆けは済ませた。
新しく入った軍馬の様子も見に行った。
はて、何かあっただろうか。
答えをなかなか見つけ出せないでいることに腹を立てたのか呆れたのか、は背中を撫でていた手を離すとまたため息をついた。




「なんだか拍子抜けしました。あの時、約束してくれたじゃないですか。時が経ったら私の妻として傍にいてほしいって」
「あ・・・ああ、覚えているとも!」
「忘れてましたよね、完璧に。・・・せっかく兄上たちも許してくれたのに・・・」
「な、そ、それはまことか! 馬超殿はともかくあの馬岱殿も!?」
「はい。あ、でもこの間趙雲殿に敵扱いされたことにものすごく腹を立てていたので、また考えを改めたかもしれません」





 あれか、やはりあれがまずかったのか。
まずいに決まっていると覚悟はしていたが、あれがきっかけでまた振り出しに戻ったのか。
先程の馬超の話しぶりからももしかしたらいけるのでは、ここはひとつ傷が癒えたら直談判しに行こうと思っていたのに。
自身の愚行のせいだと思ってはいるが辛い。
自ら千載一遇の機会を逃してしまったようで、悔やんでも悔やみきれない。




「子龍殿、ここからは真面目はお話です。子龍殿は、もし劉備様が明らかに我が軍に利のない戦を仕掛けようとなさっていたら、それを止めることができますか?」
「殿に限ってそのようなこと・・・。第一、諸葛亮殿が承諾なさるまい」
「諸葛亮様は文官の長です。軍を統率する子龍殿は?」
「その戦が本当に我らの利にならぬものだというのであれば、私は殿をこの命に代えてでもやめられるよう進言する。・・・珠蓉の無理強いで不安になったか?」





 はこくりと頷くと、兄上はと呟いた。
兄は曹操を前にすると正義という言葉だけが頭の中にひしめき、その他のことは見えにくくなる。
劉備との付き合いもそれほど長くはない兄では、いざというときに劉備の動きを止める枷にはならない。
が言わんとしていることを今度は間違うことなく受け取った趙雲は、大丈夫だと力強く答えた。
優しさは強さであり優しさだ。
情につけ込まれ我を見失い、周囲の大切な人々を悲しませるようなことは二度とやりたくない。
情に流された結果が暗いということを身をもって知ったから、他人が感情だけで突き進み周りが見えなくなっている時はその人を抑えることができる。
抑えなければならないと思っている。
今度こそ守らなければならないのだ。
もう、珠蓉のような寂しい別れはしたくない。




「今更だが・・・、守るものが増えたな、私は」
「私もその中に入っていますか?」
「無論だ。・・・今度、馬家を訪ねてもいいだろうか」
「くれぐれも岱兄上の狙撃には気を付けて下さいね」




 本気半分冗談半分のの忠告に、趙雲は神妙に頷いた。







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