水面の月は沈まない 前
誰が何度どう思おうと、あれは愛しい我が子なのだ。
人を美しいと思ったのは、初めてだったかもしれない。
透き通るような白い肌と気だるげな瞳。
重い物など絶対に持てない、持てば折れてしまうであろう細い腕と指。
すべては病を得ていたがための容姿だったが、にもかかわらず口から迸る愛嬌のひとつも零れない苛烈な言葉。
荀彧はつい先日拾った佳人を思い出し、深く息を吐いた。
と自らを名乗った娘と出会ったのは、行軍途中にあった古びた寺院だった。
万病に効くといわれる薬を求め静養に訪れていたが度重なる戦いのせいで静養先の地は荒廃し、かといって自由に動ける身でもなかったのでぽつんと佇んでいたらしい。
口ぶりこそは素っ気なかったが、言われてみれば確かに顔色はとても悪かった。
どうせ長くは生きられないのだから勝手に死なせろと突き放されたが、見かけてしまった以上は見殺しにはできない。
だから少々無体を働いて、彼女を屋敷へと連れ帰り療養させることにした。
それから毎日彼女のことが心配で顔を出しているが、彼女から投げかけられる言葉はとても痛い。
命の恩人に対して外道とは、さすがに少し身に堪える。
「頼んでもおらぬのにかような地へ連れてくるとは、よもやそなたも盗人か」
「勝手をしたことについては申し訳ありません。貴女の病が治った暁には、必ずや貴女を故郷までお送りいたします」
「いらぬ」
「しかし・・・」
「治る病ではない。医師も薬師も皆そう言う」
「そのようなことはありません。気を強く持てばいずれ、必ず」
「・・・そなた、わたくしを見限った家族と同じことを言うのだな」
はそう呟くと、荀彧から目を逸らし小さく咳き込んだ。
間髪入れず白湯を差し出す向かいの青年の手際の良さに驚くが、受け取ることはせず胸に手を当て呼吸を落ち着かせる。
白湯の正体がとても高価な薬だとは薄々わかっていた。
そのようなものを使っても無駄なものは無駄なのだ。
金と手間をかけるだけ無駄なのだ。
気を強く持ってすべてが解決するのであれば、ここに至ることはなかった。
生家を出されることも、愛した人と別れることもなかった。
生きていてもどうせ何も成せない体なのだ、生きているだけ無駄だった。
「・・・とにかく、わたくしにはもう構うな。ここも明日にでも出て行く。・・・うつる病ではない、安心しろ」
「行くあてがおありなのですか。お身内の方がこの近くにおられるのなら、私も共に・・・」
用は終わったとばかりに立ち上がり踵を返したを追い、慌てて袖をつかむ。
強い力で引いたわけでもないのに、ただそれだけでふらりと揺れる体が不安でたまらない。
伝手を頼り、腕利きの医師たちに薬を用意させてもは一口も口にしない。
おかげでここに来てからますます顔色が悪くなった気がする。
こちらを嫌っているのは仕方がないが、命を削る意地の張り方は好ましくない。
生きたくても死んでいく兵たちがいるのに、自ら死にに行こうとしているが理解できない。
治らない病ではないはずだ。
たとえ彼女が言うように本当に治らない病だとしても、進行を遅くしたり症状を軽くしたり、生きられる手段はいくらでもあるはずだ。
だからこうして毎日、隙あらば薬を飲ませようとしているのだ。
そして賢い彼女はきっと、こちらの焦燥や思惑を知った上で薬を口にしていない。
生かしたいと思っているこちらの願いを嘲笑って踏みにじるかのように、冷たい言葉で切り捨てる。
なぜ生かしたいと思っているのかもわかっていて拒絶しているのならと、そう考えて荀彧は小さく唇を噛んだ。
「わたくしに一目惚れでもしたか?」
「・・・・・・」
「残念だったな。諦めよ、わたくしはそなたのために生きてやるつもりもないし、そなたのためになるような女でもない」
明日は晴れるといい。
知っているか、わたくしが育った場所は日差しの暖かい海が広がる地だったのだ。
そう歌うように言い残し寝所へ戻っていったは翌日、本当に荀彧の前から姿を消した。
消したことはもちろん気付いていたが、荀彧は止めることができなかった。
生まれて初めて求婚された。
親たちが決めた相手ではなく、初めて出会った男に突然妻にならないかと言われた。
はいともいいえとも答えられるわけがない。
わずかばかりの荷物を手に慣れない旅路を始めようと馬車に乗り込んだ矢先事故に遭い、横転した馬車から息も絶え絶え抜け出してきていきなり言われたのだ。
砂埃を多分に吸い込んだせいで咳は止まらないし、胸も苦しい。
手を差し伸べてくれたのは親切からだろうと思って素直に手を取ったのに、途端にわしの妻にならぬかである。
まずいと思い手を離そうとしても、がっちりとつかまれているので逃げられない。
自分が人よりも少しだけ見目が良い自覚はある。
器量だって、一応落ちぶれてはいても本家筋はかなりの家柄だったおかげで躾だけは厳しくされた。
抜群に悪いのは体だけだった。
体さえ丈夫ならば、病さえなければ、心の蔵だけと何度も言われ嘆かれてきた。
今目の前で求婚している男は、こちらの体については何も知らない。
この男に一目惚れでもしたのかと尋ねれば、帰ってくる言葉はおそらく諾だろう。
困る。
仮にこの男のものになってしまえば、本当に二度と江南の地を踏めなくなるかもしれない。
屋敷の中で過ごしてばかりだったが、叶うのであればあと一度でいいから故郷の大地を歩き広大な海を眺めたい。
「不自由はさせぬ。いずこかへ向かうのであれば、わしが連れて行こう」
「そ・・・んなこと・・・・はっ、頼んでおらぬ・・・!」
「顔色が悪い。気が動転しておるのであろう、この者を屋敷へ運べ」
「断る! わたくしに、構うな!」
「ほう、威勢の良い女だな。だがそれも良かろう」
振り解けなかった手が背へと回り、ひょいと抱き上げられ車へ乗せられる。
かなり豪奢な造りで少々居心地が悪い。
落ち着いたかと尋ねられるが、慣れぬ空間に心休まるはずがない。
しかもなぜ、さも当然というように隣に座り肩に腕を回しているのだ。
まだ妻になるとも告げていないのに、このままでは彼の思惑のままに事態が進んでしまう。
困る、何としてでも逃げ出したい。
しかし悲しいかな、逃げるにももはや体力を使い果たしてしまっている。
「お主、名は?」
「・・・」
「、良い名だな、わしの妻に相応しい。わしは曹孟徳、いずれ天下を統べる男よ」
「・・・・・・あやつの、主か・・・・・・」
出て行くと豪語し屋敷を飛び出した女が、いつの間にやら主君の妻に収まっていたと知れば彼はどう思うだろうか。
乱世の姦雄に見初められるに至った理由はあれが勝手に連れ去ってきたことにあると考えるだけで、気分が悪くなってくる。
お節介焼のくせに詰めが甘い男だった。
そなたが止めなかったおかげでこちらは絶体絶命の窮地に陥ったのだぞ。
はついぞ指一本触れてこなかった堅物のお節介男に心中で悪態をつくと、体の限界を感じぐったりと目を閉じた。
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