月夜に恋して 11
よほどの趣味でない以上、男たるもの美女を好む。
部下がどこからか連れ帰ってきた曹操の娘は、父親には全く似ていない整った容姿の持ち主だった。
見た目だけであれば、傍に侍らせるのも悪くないとすら思った。
しかし孫権は口を開く彼女を見て、その考えをあっさりと捨てた。
見てくれは孫呉の名だたる美女に劣らぬものであっても、中身があれではいけない。
なぜ凌統は彼女に惚れたのだろうか。
あの歳で人生を達観しているなど、怖いではないか。
「凌統、お前、間違えて別の姫君を連れて来たのではあるまいな」
「・・・間違いなく彼女です」
「ああいう女が好みだったか?」
「彼女だから好きになったんです。・・・お願いします、本人はああ言ってますけど、命だけは・・・」
凌統はに託された髪紐を握り締めた。
何の意味で渡されたのかわからなかった。
思い出を捨てるということだろうか。
そうだとすれば、とても悲しいことだった。
やっと逢えたというのに。やっと願いが叶うかもしれないというところまで漕ぎ着けたのに。
「しかしあの強情さ、うちの尚香と良い勝負だとは思わぬか」
「毛色は違いますけど、おっかないところはそっくりですね」
「あれではさぞや曹操も手を焼いただろうな」
乱世の姦雄と呼ばれる曹操が小娘1人に手を拱いていると想像すると、なにやら気分が良くなってくる。
手を煩わせる娘であっても、消息不明となれば彼も困るだろう。
だからといって公主を人質扱いしても、全く音沙汰はないだろうが。
「公主も言っていたが凌統。私はこのことで敵に付け入る隙を与えたくはない。覚悟はしておくことだ」
「・・・・・・わかっています。俺だってそのくらい考えて連れて来たんです」
もしも彼女が殺されてしまったら、自分はどうなってしまうのだろう。
考えたくない未来に、凌統は表情を暗くした。
は困惑していた。
見世物ではないと孫権が厳命を下しているせいか、訪れる者はほとんどいない。
いつまで飼い殺し状態が続くかもわからない中での生活は、かなり苦しい。
そんな不安定な生活の中で現れたのは、小柄な青年と周瑜だった。
「私のことを覚えていますね」
「・・・どこかでお会いしたことがありましたでしょうか・・・?」
「忘れたというのですか、私のことを」
いい根性していますねと言い不敵な笑みを浮かべる少年の扱いに困り、は思わず周瑜を顧みた。
周瑜も彼にはそれなりに困っているらしい。
青年の名前らしい、陸遜と名を呼んでも大した反応は返ってこない。
「忘れたとは言わせませんよ。許昌でご自身の部屋を火の海にした挙句、私を危うく焼死させようとしたこと」
「・・・そういえばそのような事も・・・」
「この借りは返させていただきますよ・・・」
「陸遜、彼女には手を出すなという殿のご命令を忘れたのか」
話についていけない。
は1人で騒いでいる陸遜をじっと見つめた。
許昌での仕返しをするためにわざわざやって来たのだろうか。
それは違う気がする。
陸遜はひとつ咳払いをすると、急に真面目な顔つきになって殿と声をかけた。
「あなたのお母上はお元気ですか?」
「・・・母はわたくしが幼い時分に亡くなっております」
「そうですか・・・。あなたのお母上は、こちらのお生まれですね」
「なぜ、それを」
娘である自分さえその事実はつい先日聞かされたばかりだというのに、なぜ見ず知らずの青年がそれを当然のように知っているのだろうか。
仕返しをする相手については、その母親の出身地まで調べておくのが常識なのだろうか。
武将の世界は奥が深い。
はまた1つ、凌統が生きる環境での常識を新しく覚えた。
「戦乱に巻き込まれ多少落ちぶれたかもしれませんが、我が一族を舐めてもらっては困ります。・・・いえ、あなたの一族と言うべきかもしれません」
「何を仰っておいでなのか、意味がわかりかねます。わたくしは曹家の者。あなたの一族とは何の関わりもございません」
「あなたのお母上の祖父・・・、あなたにとっては曽祖父になりますか。あなたの曽祖父の兄弟の曾孫が私だと言ったら?」
「それはほとんど他人と言うべきなのではありますまいか?」
「確かに私とあなたは他人でしょう。むしろ、私はあなたの事をいずれ決着をつけるべき相手だと思っていますから。
ですが、これを告げることであなたは新しい生き方をすることができます。凌統殿と共に」
は、青年が言わんとしていることがようやく理解できた。
彼は彼なりの方法で助けに来たのだろう。
もしかしたらただの善意だけではなく、こうすることで何か別の作用がもたらされることを望んでいるのかもしれない。
しかしそうであったとしても、仮に自分が彼の一族に連なる者であったとしても、曹操の娘であることに変わりはないのだ。
自分がいるせいで凌統の未来に障りが出てくるかもしれないという危惧は、拭い去ることはできないのだ。
は足手まといになるのだけは嫌だった。
孫権という主の下で、彼が最も彼らしく輝ける生き方をしてほしかった。
「・・・お話はよくわかりました。けれども、わたくしはそうまでして生きようとは思いません。あなたもわたくしも親族であるならば、私の願いを聞き届けてはいただけませんか」
「本当にあなたはわがままなんですね。はっきり言います、あなたの願いは自己満足です」
「陸遜」
黙って話を聞いていた周瑜が、ようやく口を開いた。
周瑜は立ち上がるとの元へ歩み寄り、目線を同じ高さにするために身を屈めた。
「殿。・・・人は人として生まれた以上は、どんな生き方をしても必ず死が訪れる。誰もが等しく死を迎えるのであれば、せめて生きている間は多くの幸福を得ようとは思わぬか?」
「・・・思います」
「凌統と共に生きることは、そなたにとっては苦痛ではないにしても、特別幸せだとも言えないかもしれない。
けれどもあの男は、殿と共に生きていくことに至上の喜びを感じることができるのだ。他のどんな女性でもなく、殿といることに」
だからと呟き、周瑜は一度言葉を切った。
歳若い娘に語るのは、少し難しいかもしれない。
真意が正しく伝わるかどうかもわからない。
それでも周瑜は、に教えたかった。
凌統が抱き続けてきた想いの深さと、喪ってしまった時に感じるであろう絶望の大きさを。
「誰かの幸せのために生きることは、初めは無意味なものかもしれない。しかし私は思うのだ。凌統が幸せになることが、そなたが本来最も望んでいることではないかと」
「・・・わたくしは、わたくしがあの方の傍にいるために、あの方の未来が閉ざされてしまうのが恐ろしいのです」
「凌統はそれほど柔な男ではない。そなたの手がかりを得るために使者の選考まで受けた男が、それしきの壁に戸惑うものか」
「あれには驚き、そして呆れました。あなたが考えている以上に凌統殿はあなたを想っているんです。そんな思いを断ち切って死にゆくなど、とんだ無礼です」
周瑜はもう一度、凌統のために生き続けるつもりはないかと尋ねた。
俯いたまま顔を上げようとしない彼女の表情を窺い知ることはできない。
これを聞いた上で彼女が下す決断を覆すつもりはなかった。
横から誰が何と言おうと、結局は彼女の人生なのだ。
決めるのは彼女自身である。
「・・・周瑜殿」
が小さく呟いた。
顔を寄せた周瑜の耳元にが短く言葉を告げる。
言葉を聞き終えた周瑜に促され部屋を退出する陸遜が見たのは、の頬を濡らす涙だった。
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