月夜に恋して 13
孫権を初めとする人々に迎えられたは、その翌日から、訳もわからぬままに大きな屋敷へ連れて来られていた。
随分と広い邸宅だが、人気がなくしんと静まり返っており寂しい。
こんな人寂しい場所に凌統は暮らしているのだろうか。
江南の地には戦乱から逃れるために多くの民が流れたと聞いていたが、増えてもこれだけなのか。
人混みに紛れているわけでもないのに肝心の凌統すら見当たらない見ず知らずの地に、は立ち竦んでいた。
「あなたがあんなことを言うのであれば、本当に他人でいれば良かった」
「あんなこととは?」
「自覚はないのですか? 公衆の面前で躊躇いなく凌統殿を慕っていると口にしたというのに」
「そういえばそのような事も・・・・・・」
煮え切らない返答に呆れたのか、陸遜はを伴うと無言で母屋へと誘った。
勝手知ったように歩き回る陸遜を見て、ようやくここが彼の自宅だと知る。
「大きなお屋敷なのですね」
「あなたのご実家には遠く及びません」
「ここには陸遜殿お一人でお住まいなのですか?」
「使用人を除けば。ですが今日からは2人になります、非常に不本意ですが」
案内された部屋は母屋からかなり離れた小さな、とはいっても人が1人寝起きする分には何ら支障が出ない程度に立派な部屋だった。
少々埃臭いが、掃除をすれば充分使うことができる。
燃えた炭の匂いが漂うかつての自室に比べれば改善のしがいもある。
問題は、どうやって背が届かない場所を片付けるかだ。
家主の陸遜は若年ながらもそれなりの仕事を任されており多忙を極めていそうだし、第一、彼の背丈では足りないだろう。
黙り込み物思いに耽り始めたを、陸遜はやや大きめな声を上げて呼び戻した。
「一応お伺いしますが、殿は今のご自分の状況をわかっていますか」?
「こちらの人々に迎えられ、凌統殿方にご迷惑をかけぬように生きていこうと思っている所存です」
「ええそうですね、そうですとも。あなたは今日からここで暮らしてもらいます。周瑜様の命ですので否やは言えませんし、聞けません」
「左様でございますか・・・。では本日よりお世話になります、陸遜殿」
生真面目に頭を下げるを見下ろし、陸遜は深くため息をついた。
一応身内なのだから責任持って預かってやれと周瑜に言い渡された時は、あまりの衝撃に返す言葉すら見つけられなかった。
なぜ凌統の元ではいけないのかと、当然尋ねた。
誰を恨めばいいのかわからなくなった。
周瑜曰く、彼女を凌統の元へ送ると凌統が使い物にならなくなる恐れが出てくるらしい。
はあのような性格だから凌統を色仕掛けで篭絡することはないだろうが、何年もの間待ち焦がれていた愛する女性をいざ前にして、
あの凌統が平常心を保っていられるだろうか、いや、そんなことできるはずがない。
すぐに箍を外すに決まっている。
そうなってしまえば、経緯はともかくにとっては喜ばしくない憶測が流れる可能性も出てきかねない。
それに、彼女に生きろと説得してしまった以上、なんとなく申し訳ないではないか。
陸遜は他人の恋愛事情などどうだって良かった。
結ばれようが別れようが関係なく、彼女にきっちり落とし前さえつけられればそれで満足だった。
だから、周瑜の命を素直に受け入れることなど到底できなかった。
何度も言うが、他人の恋人と同居している場合ではないのである。
陸遜には陸遜の夢があり、恋する女性がおり、凌統から睨まれ羨ましがられる謂れはないのである。
というかそれほど不安なら、なぜ周瑜自身が身元引受人とならなかった。
「この辺りの部屋は好きにしてもらって構いませんが、燃やすのはやめて下さい。火計の練習はあちらの庭でお願いします」
「何を誤解されておられるのかわかりかねますが、わたくしは無意味に火をつける趣味はございません」
「いいえあるはずです。だから許昌で自室を躊躇いなく燃やしたのでしょう」
「躊躇いました。・・・陸遜殿はなぜ、わたくしを引き取って下さったのでしょう?」
「仕方ないでしょう。周瑜様の命ですし、迂闊にもあなたが私の遠縁の親族にあたると言ってしまったのですから」
「・・・・・・」
「大体、凌統殿の理性がもう少し強ければこのようなことにはならなかったんです。
いいですか、私の屋敷に住まう以上は絶対に寝込みを襲われるような事態に陥らないで下さいね。人の家で妙なことしないで下さい」
「・・・陸遜殿も母上のような事ばかり仰るのですね」
今日はまだ面倒な事をしておらずずっと陸遜の前にいるだけなのに、訳もわからず叱られてばかりいる。
これでは張遼が何かと窘めていた頃とまったく変わらない。
彼は無事に帰還することができたのだろうか。
捕らえられたといった話も聞かない以上、父の元へ退却することができたのだと信じたかった。
あまり自分のことで気に病まないでほしい。
は張遼の顔を思い出し、ふっと目を閉じた。
思い出すのはしかめっ面や困った顔ばかりだ。
「聞いていますか殿。母親って何ですか、どうせなら兄とか父にして下さい」
「兄妹には見えますまい」
「冗談が通じないんですか、せっかくこちらが場を和まそうとしているのに」
「軍師さん、そのくらいにしてくれるかな・・・?」
突如乱入してきた声にがびくりと反応する。
露骨にではないが、さりげなく後退り陸遜の背に回るように移動する。
警戒されていることに戸惑いわずかに傷つきながらも、凌統は極力平静を装って陸遜とに声をかけた。
目も合わそうとしてくれないのにはさすがに落ち込む。
先日のあれは何だったのだ。
あれこそ演技だったというのか。
「凌統殿、早く殿を引き取って下さい」
「いや、俺もそうするつもりだったんだけどさ・・・。周瑜様に横槍入れられちゃって」
「呂蒙殿には迷惑をかけられませんから仕方ありませんが、いっそ甘寧殿の元にでも放り込めば加減良く我が軍に染まっていただけたのに」
なんということを口走るのだろうか、この軍師は。
不本意だろうが一応はの身元引受人だろうに、早くもそのような保護放棄とも受け取れる発言をされると不安になる。
本当に彼に任せて大丈夫なのだろうか。
先程も何やかやと騒がしくしていたし、もしかしなくてもこの2人の相性は最悪なのではなかろうか。
良すぎる相性というのも困ってしまうが、凌統は、そう遠くない未来にが火事に巻き込まれそうな気がしてならなかった。
「・・・、できるだけ早く迎えに行くから待っててくれるかい? あと、いつでも逢いに行くから」
「・・・・・・はい」
「常識の範囲内での逢瀬に留めて下さるよう、くれぐれも頼みます」
「・・・やっぱ、今からでも俺と一緒に来ない? 大事にするし、嫌がることもしないって」
「ですが、これはわたくしの一存では決められません」
「そうだけどさ・・・・・・。・・・まあ、こうやっての顔が毎日見れて、毎日自然に会話できるだけでも良しってことですかね」
「自然な会話には見えませんが」
「そういう細かな指摘は俺が傷つくだけだから目を瞑っててほしいんですけど、軍師さん」
今までそれなりの数の将軍たちを見てきたが、これほど軽口を叩き合う人々は見たことがなかった。
何やらとても楽しそうで、少し羨ましい。
いつの日か自分も、この賑やかな輪の中に入って共に笑い合える日が来るのだろうか。
早くそうなる日が来てほしい。
2人の様子が面白くて眺めていると、2人がこちらを凝視していることに気が付いた。
顔に何かついているのだろうかと不安になるが、確かめようもなく首を傾げる。
「わたくしの顔に何か・・・?」
「・・・いえ、殿もやはり笑われるんだなと、改めて思いまして・・・」
「え?」
「をここまで強引に連れてきたりした俺らの前で微笑んでくれてるってのがなんか意外で」
「・・・そうですか。わたくしも、笑っていると何やら気分が軽くなりました」
逸らされていた目がようやく合う。
一瞬驚いた表情を浮かべられたもののすぐに現れた笑顔に、凌統はようやく安堵の息を吐いた。
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